「阿寒湖は毬藻(マリモ)、摩周湖は霧と透明度で有名だけど知ってるか」「ウチの旅行社でも夏には避暑を兼ねた北海道ツアーを企画していたからガイドのビデオと案内パンフレットは見たことあるわ」「摩周湖の霧は夜間に湖水が冷やされて発生しますから午前9時頃には消えてしまいます」第6即応起動連隊の戦況説明が終わると増田2佐と警務官の運転手は旭川に戻り、私と梢は伊倉2佐と一緒に第121地区警務隊のパジェロで道東に向かった。今回も第6即応起動連隊の運用訓練幕僚が同行して阿寒湖、屈斜路湖、摩周湖から弟子屈町に向かう山道での戦闘現場を案内する手筈だが、先ずは観光案内からになった。この隣りの情報を収集して同一規格で臨むのはいかにも陸上自衛隊的だ。海外の軍隊の臨機応変な対応に慣れている私としては北海道でロシア軍を撃退できたのは第1次日露戦争と同様にマグレ勝ちを拾ったとしか思えない。結局、ロシア軍がソビエト連邦時代の揚陸艦や輸送機を中国に売却して大規模な地上部隊を輸送する手段を持たなかったこととウクライナ侵攻で戦力を消耗していたのが日本に幸いしたのだ。
「この辺りで回数は不明ですが夜間に行動していたロシア軍の歩兵分隊が何度も樋熊に襲われて31体の遺骸が発見されています」阿寒湖と摩周湖の中間に位置し、最大の屈斜路湖の湖畔を通り抜けて山道を下り始めると前を行く第6即応起動連隊のパジェロが停車して運用訓練幕僚が歩み寄って現場写真を見せながら説明した。
「ロシア兵は発砲しなかったのか」「樋熊の頭蓋骨は正面に命中しなければAK74の5・45ミリ弾では貫通しません。胴体も心臓を射抜かなければ即死させられません。発砲したなら手負いにして凶暴性を強めるだけです」中学3年の時に見た映画「グリズリー」では前足の横振り一撃で馬の首が吹き飛ぶ場面があったが、ロシア兵たちも首がなくなっている。また映画の通りに餌として保存するため食べ残した胴体は樋熊が掘った穴に埋められている。その後、蒲郡高校の夏休みに同級生の女生徒を海水浴に誘うと「ジョーズを見て海が怖くなった」と断ったのだが、二番煎じの駄作だった「グリズリー」も北海道で見ていれば同じように山が怖くなったかも知れない。
第6即応起動連隊の運用訓練幕僚は弟子屈町で引き返し、そこで第27普通科連隊の運用訓練幕僚と交代した。これからははるか遠方に山を作っている知床半島まで地平線を描いている広大な根釧台地を走り回ることになる。対人地雷POM3にも要注意だ。
「ここが第5旅団としては最大の交戦現場になります」別海駐屯地に単独で第5偵察隊と同居している第27普通科連隊第3中隊が開戦初頭に指揮所を置いていた中標津役場を見学した後、標津港に向かう途中で前を行く運用訓練幕僚のパジェロが停車し、手招きで私たちを呼び寄せた。1尉の運用訓練幕僚が私は兎も角として2佐の警務隊長を呼び付けるのは無礼であり、細かいことは気にしない増田2佐とは性格が違う伊倉2佐は憮然として助手席を下りると先に立って歩いて行った。
「標津港への上陸に成功したロシア軍の1個中隊が中標津方面に徒歩で進軍してきたんです。それを5偵(第5偵察隊)が察知して中標津町内に駐留していた3中隊が阻止しました」運用訓練幕僚は車両に残った運転手以外の3人が揃うと解説を始めた。この戦況報告は警務隊本部で読んでいるが「警察権の行使の範疇を超えた本格的な戦闘だった」と言う感想を持っていた。攻撃を受けたロシア軍は戦争法が定める交戦者の要件通りに指揮官に指揮され、階級章を明示した軍の戦闘服を着用し、武器と弾薬を公然と携行していたとは言え隊列を組んだ行進状態であり、警察権の行使としては武器と弾薬の放棄を勧告して身柄を拘束するのが合法的措置だ。ところが第3中隊は道路の左右の土手と雑木林から警告も与えずに銃撃を加え、軽迫撃砲の連続砲撃で壊滅的損害を与えた。戦闘であれば先制攻撃は常識でも防衛出動が発令されていない現時点では司法当局は難しい選択を迫られる。ましてや第121地区警務隊はロシア軍の非人道的な武器使用を刑法犯罪として告発しようとしているので、それは自衛隊側にも適用されることになる。
「長閑なところなんだがな」「うん・・・静かで美しいところね」100人を超える将兵が戦死し、ところどころに迫撃砲弾が抉った弾痕を応急処置した道路に立って周囲を見渡すと広い畑の畝(うね)には伸び切ってしおれた馬鈴薯の茎と雑草が茂っていた。
- 2023/08/05(土) 13:55:06|
- 夜の連続小説9
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