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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

8月6日・3度目の今治空襲

同じ年月日の午前8時15分にヒロシマに原子爆弾が投下される8時間前に瀬戸内海を挟んだ対岸の愛媛県今治市が3度目の空襲を受けました。
原子爆弾の投下と通常兵器による日本の都市空襲はどちらもサイパン島を始めとするマリアナ諸島に建設した基地からアメリカ陸軍航空軍が実施していましたが、原子爆弾の投下は大統領の署名命令なのに対して通常兵器による都市空襲は第21爆撃軍団の作戦計画に基づく軍団司令官の職権なので同時進行で実施されることもあり得る事態で、実際8月9日のプルトニウム爆弾は小倉に投下する予定だったはずが前日の八幡空襲による火災の黒煙が上空を覆って目標が視認できず第2目標の長崎に変更したのです。
愛媛県には広島県出身の源田実大佐の発案で紫電改による松山海軍航空隊が置かれ、Bー29の護衛戦闘機と激しい空中戦を繰り広げたため脅威=攻撃目標として認識され、松山市は昭和20(1945)年2月10日にBー29が1機で上空を通過した偵察飛行から1週間後の2月17日に航空基地が艦載機によって爆撃され、5月4日朝にはBー29が17機で破壊しました。そこで無傷の都市が目についたのか7月26日の午後11時8時から翌日の午前1時にかけて128機のBー29が焼夷弾896トンを投下して全家屋の55パーセントが焼け、251名が死亡、8名が行方不明の被害を出しました。
一方、今治市は四国の瀬戸内海側の突起部に所在するため海運の要所として発展し、平安時代には伊予の国府が置かれました。中でも造船と船舶部品、繊維工業(現在もタオルが有名)は四国随一の生産量を誇り、戦時中も軍需産業として大きく貢献していました。そのため海軍の航空基地が狙われた松山市とは違い昭和20(1945)年4月26日に4機のBー29が60発の爆弾を投下して死者68名、家屋56戸が全半壊、続く5月8日にも死者29名、家屋141戸が全半壊する被害が出ていました。
そしてマリアナ諸島のテニアン基地では8月6日の午前0時37分に気象観測用の3機のBー29が離陸し、原子爆弾・リトルボーイを搭載したエノナ・ゲイが午前1時45分の離陸に向けて飛行準備を整えていた午前0時5分から午前0時47分にかけて64機のBー29が510トンの焼夷弾を投下して市街地の80パーセントに当たる家屋8199戸が全焼して454名が死亡、150名が重傷を負いました。この犠牲者の中には今治市内の軍需工場に動員されていた松山高等女学校や松山城北高等女学校の女子生徒や本土で就職していた沖縄県の女性たちも含まれています(沖縄はアメリカ軍に占領されたため帰郷できなくなっていた)。
NHKを代表とする現代のマスコミは戦没者にも優劣をつけるようで8月6日の戦没者はヒロシマの原爆の犠牲者でなければ認められないため今治市の空襲は開始時間を5分早めて8月5日にして慰霊行事もこちらの日付で実施しているようです。それは長崎の被爆者も同様で「長崎の鐘」が似合うカソリックではなければ悲劇の主人公にはなれず、市内の寺院で厳修されている慰霊法要はNHKは勿論、地元新聞やローカルテレビでも取り上げられたことがありません(盂蘭盆会=施餓鬼と同一視されているのかも)。
  1. 2023/08/05(土) 13:56:42|
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