1994年の明日8月11日は少年時代からオカルト的で海軍兵学校を卒業して飛行士官になってからも神が繋った言動を弄し、対米英中戦争末期には「お光教=東京大田区蒲田に本部を置く高橋妙龍さんと言う中年女性を教祖とする竜神信仰の新興宗教」に傾倒した挙句に敗戦後は新興宗教の教祖になった柴田武雄大佐の命日です。90歳でした。
柴田大佐は日露戦争が始まって10日後の明治37(1904)年2月に現在の福島県相馬市で生まれました。敗戦後に怪しい宗教家になってからの自己申告によると子供の頃はひ弱で言語障害もあり、作文と弁論が大の苦手だったそうです。それでも父親の意向で尋常小学校6年間と高等科2年に通った後、旧制・相馬中学校に100人中14番の成績で進学すると「数学の神さま」と呼ばれるほどの好成績を維持する一方で中学校1年の時に催眠術を覚え、4年で的中率100パーセントの数理的占い術を発明し、5年の1学期にはドウシタイなる予言者と寝食を共にして奥義を伝授されたそうです。
大正13(1924)年に海軍兵学校52期生を252人中46位の成績で修了しましたが同期には高松宮宜仁皇族大佐、庵原貢大佐=後の海上幕僚長、自己演出の権化・源田実(敬称・肩書不要)、源田と共に神風(しんぷう)特別攻撃隊を創設・推進した猪口力平大佐、敗戦後は日蓮宗の坊主になった玉井浅一中佐、真珠湾で「トラトラトラ」を打電した淵田実津雄大佐などがいました。なお自己申告によれば海軍兵学校の3号生徒=3年生の時に占いを止めてからは霊的エネルギーが閃きになって意識を過(よぎ)るのを自覚するようになったそうです。
卒業後の職種は飛行科で昭和2(1927)年に航空母艦・赤城に配属されて翌年には霞ヶ浦航空隊の操縦課程に入校し、卒業時に戦闘機専修に指定されると大村航空隊、航空母艦・加賀を経て霞ヶ浦での教官に抜擢されました。この頃、源田の上海事変での戦況報告を聞いて「魔力」を感じたそうで以降、同期でも近づくのを避けるようになりました。
以降は海軍航空隊が戦力化していく過程の試行錯誤に当事者として参加しますが、零式艦上戦闘機を開発していた三菱重工の設計技師・堀越二郎さんに歴戦の搭乗員として源田と共に「格闘性能、速度、航続距離のうち優先すべきは」と問われて源田は「全て必要だが、強いて言えば格闘性能」、柴田少佐は「格闘性能は技量で補う。だから航続距離」と答えたと言う逸話があります。
大陸戦線、対米英中戦争では指揮官として前線を渡り歩き、搭乗員と航空機の消耗を目の当たりにしましたが、昭和20(1945)年2月になってメッサーシュミット163を模倣したロケット戦闘機・秋水の開発を担当するとテストパイロットが入信していた「お光教」に加入して熱心な信者になってしまいました。
敗戦後は実家の自動車工場を手伝って暮らしていましたが、昭和38(1963)年9月25日の就寝前に下腹部に全宇宙のエネルギーが集中する神秘体験をして「ンナン学(宇宙万有に平等に偏満している無限永遠の生命の明確な把握を説く真の教え)」なる新興宗教の教祖になっています。
- 2023/08/10(木) 14:18:25|
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