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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

8月15日・「私は貝になりたい」の実話?一宮町事件が発生した。

日本が前日にポツダム宣言の受諾を通告し、正午に昭和の陛下の玉音放送が流れて日本の無条件降伏が国民に周知された昭和20(1945)年の8月15日午前10時頃に千葉県沖の太平洋を航行中のアメリカ海軍とイギリス海軍の艦隊のイギリスの航空母艦・インディファティカブルから発艦したスーパーマリーン・シーファイアー戦闘機が千葉県長生郡西村上空で日本海軍の零式戦闘機に撃墜されて落下傘で降下したフレッド・ホックレー少尉が長生郡一宮町で歩兵第426連隊の大尉に処刑されました。
ホックレー少尉はインディファティカブルの戦闘機15機の編隊長で当初は東京湾の空襲に向かった艦載機の護衛を命じられていましたが、途中で「オダキ湾(=千葉県内に該当する地名はない)」の化学製品工場に変更されたため千葉県長生郡上空を飛行していて海軍の零式艦上戦闘機に撃墜されたのです。この時、ホックレー少尉の戦闘機は無線機が故障していて日本軍機の接近情報は伝わっていなかったようです。
被弾して脱出したホックレー少尉は落下傘で長生郡東町内に降下し、地元の警防団員や兵士に捕獲されて東村国民学校に連行されました。東村国民学校は村内に開設されていた新兵教育隊にホックレー少尉の身柄を預け、教育隊が地域担当の歩兵第426連隊に通報すると長生郡土陸村にあった連隊本部へ連行するように指示され、正午から玉音放送があったため午後2時になって到着し、長生郡一宮町の連隊本部の宿営地に移された後、夜になって近傍の山林に連れていかれて連隊所属の大尉に殺害されました。
実は昭和20(1945)年8月14日の午後10時半から15日の午前3時半にかけてマリアナ群島を発進したアメリカ地区軍航空軍のBー29が秋田市の油田地帯を空襲し、15日の深夜0時頃から埼玉県熊谷市と群馬県伊勢崎市を空襲していますが、ワシントンからは「発進後に日本がポツダム宣言の受諾を通知してくれば作戦を中止するから引き返せ」と命令されていながら無視して空襲を強行しました。おそらく8月9日に大湊軍港を空襲し、釜石市を艦砲射撃していたアメリカとイギリスの艦隊も艦載機を発進させた時点で日本のポツダム宣言受諾は伝わっていたはずで、アメリカ陸軍航空軍と同様に残弾処理と最後の戦果稼ぎの感覚で空襲を継続したと思われます。
そのため人道的戦闘手段を義務付けた戦争法に航空戦を規定した空戦法が存在せず、玉音放送が単にポツダム宣言の受諾を国民に周知するだけのもので日本政府と日本軍の代表が公式な降伏文書に調印するまで降伏=停戦は成立しないことを理解していない日本陸軍の将兵たちはアメリカ軍の都市部の無差別爆撃や農漁村への機銃掃射を戦争犯罪と考え、復仇(敵の戦争犯罪を当事者が独自に処罰する行為)として処刑したのではないでしょうか。
この結果、実施者の大尉と連隊長、相談を受けた師団参謀は敗戦後の1947年6月13日から30日に香港のイギリス軍の軍事法廷で裁かれ、連隊長と師団参謀は死刑判決を受けて9月16日に執行され、大尉は禁固15年の判決を受けています。
ホックレー少尉の遺骸は終戦後に秘かに掘り起こされて荼毘に付した後に横浜のイギリス人戦没者墓苑に改葬されました。
  1. 2023/08/14(月) 12:11:18|
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