2003年の明日8月16日は「待つわ」を大ヒットさせた岡村孝子さんと加藤晴子さんのフォーク・ディオ「あみん」の名前の由来(さだまさしさん経由)になっているアフリカのウガンダ暴君・イディ・アミン・ダダ大統領の命日です。
アミン大統領は死ぬまで自伝や公式な経歴を明らかにしなかったため生年月日や出生地、家族については推定の域を出ていません。現時点で有力とされている説ではウガンダがイギリスの植民地だった1925年頃に西ナイル地方のカクワ族の家系に生まれ、イスラム教徒の一族だったためアミン・ダダと名乗るようになったとされています。
アミン大統領自身は幼い頃に父親に捨てられたようでルグバラ族の高名な伝統的ハーブ療法家だった母親に育てられ、成長するとウガンダの中央部にあるボンボのイスラム教の教室に通った後、1946年にイギリス植民地軍の王立ライフル隊に炊事係として雇われると身長193センチの体格を活かして各種体育競技会で活躍し、ボクシングではヘビー級の王者になり、ラグビーではアフリカ人唯一の選手として試合に出場し、植民地軍中尉にまで昇任しました。1962年にウガンダが独立すると最大部族の国王で初代大統領になったエドワード・ムセタ2世を排斥してミルトン・ナボテ首相を終身大統領に擁立して自分は参謀総長になりました。そして1971年にはナボテ大統領がイギリス連邦首脳会議に出席している留守を狙ってクーデターを起こして国家元首の地位を奪ったのです。
その背景には植民地の独立運動とそれに伴う部族抗争に武器を供与することでアフリカへの影響力を増大し、支配を進めるソビエト連邦に迎合するナボテ政権をアミン参謀総長に打倒させることで意のままに操れる自由主義政権が樹立できると考えたイギリスやアメリカの陰謀がありました。実際、アミン政権の創立当初は反共産主義を掲げるザイールのモブツ・セセ・セコ政権と同様にイギリス、アメリカだけでなくイスラエルとも密接な経済・軍事関係を結びました。
ところが軍事独裁体制が進むとまともな教育を受けていないアミン大統領の政権運営は破綻を来たし、選り好みで閣僚や国営企業の経営者を任命したため全てが行き詰まり、これに不満を叫んだ反対者を弾圧して10万人から50万人を虐殺したと言われています。
さらに西側のマスコミが批判報道を繰り広げ、「虐殺した人間の肉を食べた(本人は菜食主義者だった)」などの真偽不明の噂話が世界に広まって次々に国交を断絶するとアミン大統領はイスラム教に立ち位置を替え、リビアのカッザーフィー国家指導者やパレスチナ解放機構のアラファート議長に接近してかつての盟友・イスラエルと敵対することになりました。その結果、イスラエル軍によるエンテベ空港人質奪還作戦を受けて威信が傷つきましたが、その後も周辺国への軍事介入を続けたもののことごとく失敗して、1979年に反体制派の攻撃を受けた上に軍内部の離反も起きて失脚し、リビアに亡命しました。
ところが流石のカッザーフィー国家指導者も庇い切れず、1980年に敬虔なイスラム教徒として暮らすことを条件にサウジアラビアに身を寄せ、ここで死亡しました。帰国は政権に復帰したナボテ大統領に拒否されて果たせませんでした。
- 2023/08/15(火) 15:06:32|
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