明治7(1874)年の8月16日に江戸時代の東北随一の譜代大名・酒井藩=現在の山形県庄内地方全域での百姓一揆・ワッパ騒動が起こりました。
現在の山形県でも日本海側の穀倉地帯・庄内平野を領していた酒井藩は岡崎以来の譜代大名の名門で奥羽越列藩同盟でも枝胤=親藩とは言え2代将軍・秀忠公の落とし種の血統の会津の松平藩や東照神君・家康公の時代まで三河国を東西2分して争っていた長岡の牧野藩、外様大名の仙台の伊達藩や米沢の上杉藩よりも格式は上でした。
そうなれば当然、戊辰戦争では会津以上に抵抗しなければならず薩長土肥側も徳川家に忠誠を尽くす最後の譜代大名=賊軍として滅亡させようと総力戦で臨んでくるはすでした。実際、酒井藩は藩主と士農工商の全領民の結束が極めて固く、天保年間に枝胤の川越藩主が豊かな庄内に目をつけて、長岡を加えた三角トレードを画策した時には幕命が下ったにも関わらず領民の強固な反対で中止になっています。そのため多くの農民・商人が志願兵になって武器を取って戦闘に参加したのです。
ところが庄内の鎮定に当たったのは他ならぬ西郷南洲翁で会津では農民あがりの奇兵隊を含む衆人環視の中、軍装のまま床几に腰を下ろした軍幹部の前で裃に威儀を正した松平容保公に土下座をさせる屈辱を与え、戦死者の埋葬を禁じて親兄弟や友人の遺骸が野良犬に喰われ、腐って白骨になっていくまで放置させたのに対して庄内では西郷翁自身が武家の作法に則って藩主に礼節を尽くし、戦後処理=明治以降の体制変更も原則的に酒井藩自らの処置に委ねたのでした。これが裏目に出たのがワッパ騒動でした。
庄内は藩主の居城や武家屋敷が集中する鶴岡が行政の中心でしたが、経済は北前船の寄港地の酒田でした。戊辰戦争が終結すると明治新政府は主従関係が焼失し、多くの家臣を雇用しなければならなくなった藩主からの要望で廃藩置県を実施し、それに伴い14万8千石の酒井藩は商都・酒田に広大な田園地帯を有する酒田県と生産性が低い武士が集まる庄内県に分割されたのです。
この庄内県と酒田県で行政を担うことになった旧・酒田藩の守旧派の家老・中老職は新政府の要人となった西郷翁のお墨付きを得ている「酒井藩自らの処置」を盾に中央政府からの指示を黙殺し、他藩が税制改革として収入に応じた金銭による納税に移行したにも関わらず庄内県と酒田県では江戸時代の制度そのままに農民の水田の面積と商工業者の雑税による米での年貢が維持されました。庄内藩としては戊辰戦争後の混乱で小作人が農地を捨てたため全国的な不作になっていて高値で売れる米の年貢の方が利益は確保できたのです。ワッパ騒動と言うのは「金銭での納税に移行すれば全ての領民に曲げワッパ一杯分以上の返金ができるだろう」と言う嫌味に由来します。
その後は毛利藩のような下剋上的蜂起は起こらず折り目正しい酒井藩らしく守旧派に反対する改革派士族が領民を指導して政府への陳情を繰り返す中で徐々に実態が明らかになり、最終的には司法が介入して西南戦争(西郷私学校に留学していた酒井藩士の息子たちも参戦した)終結後の明治11(1878)年になって法的に決着をつけました。
- 2023/08/16(水) 13:59:05|
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