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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

8月24日・日露戦争における初の主力戦・遼陽会戦が始まった。

明治37(1904)年2月6日の日露戦争の開戦から半年が経過した8月24日から9月4日まで日露両軍の初の主力戦になった遼陽会戦が行われました。
開戦当初、日本陸軍はシベリア鉄道でヨーロッパのロシア軍の主力が到着する前に朝鮮半島から満州南部の支配権を確保するのと同時にウラジオストックを占領する短期戦の戦略を立てていましたが、ロシア軍は当時のシベリア鉄道が単線だったので「貨車の往復に時間を要する」と言う日本軍の見積もりに反して到着した貨車を次々に撤去・破棄する一方通行方式で送り込んできたため戦略の練り直しを余儀なくされたのです。
満州における地上戦は朝鮮半島の仁川に上陸した黒木為楨大将の第1軍が満州との国境になっている鴨緑江を渡河した緒戦から始まり、遼東半島に上陸した奥保鞏大将の第2軍が遼東半島の付け根の南山を攻略して大連を占領してからはロシア極東軍司令官のプロパトキン大将が主力の到着を待ったため散発的な抵抗を受けたものの本格的な戦闘は発生しませんでした。その一方で日本海軍は決戦を避けて消極策を取るロシア太平洋艦隊を撃破して制海権を奪取したためクロパトキン大将は満州での地上戦による勝利を決意し、緒戦を野津道貫大将の第4軍に包囲されている満州南部の遼寧省ではハルビンに次ぐ都市(当時の人口は6万人)の遼陽での反攻・撃破に定めました。
こうしてロシア軍が主力を遼陽に集結させ始めると日本軍も即座に反応して旅順要塞攻城戦だけに専従している乃木希典愚将の第3軍を除く第1軍、第2軍を満州の展開地から遼陽に呼び戻して第4軍と合流させ、東から第1軍、第4軍、第2軍の陣立てで配置したのです。これは日本軍の兵力は12万人、ロシア軍は15万人で包囲する側が少数と言う軍事の基本原則に反する異常な作戦でしたが日本の陸軍大学校で教鞭を取り、当時の指揮官・参謀の大半を育成したプロシア軍のクレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル教官の師・モルトケ元帥が確立した最先端の戦術ではありました。
こうして8月5日に満州軍総司令官の大山巌元帥から第1軍に対して第2軍と第4軍の攻勢を援護するために8月16日に夜襲を加えるように命令が下りましたが、8月13日から降り始めた豪雨で川が氾濫したため25日の夜に延期されました。
その一方で第2軍と第4軍には8月14日に攻撃計画の作成命令、22日に前進命令が下り、25日の夜襲が成功したのを受けて26日から攻撃を開始すると川の氾濫で退路を断たれることを危惧したクロパトキン大将は第2軍と第4軍に占領された要地の奪還を断念して遼陽南方の高地で予備兵力に日本軍を迎え討たせることで主力に撤退を準備させて27日から撤退を開始したのです。これに対して日本軍は10月5日から17日まで戦火を交えながら奉天決戦まで睨み合いで冬を越すことになる沙河の線まで追撃しましたが断念して来る決戦に備えて陣地を構築することになりました。
この会戦の戦死者はロシア軍が2万人、日本軍は2万3千5百人と言われ死亡率は日本軍の方が高いのですが劣勢にある軍が攻勢を取り、包囲すると言う軍事の基本原則を無視した作戦ですから当然の結果でしょう。
  1. 2023/08/23(水) 14:06:02|
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