「このような症例は専門医も経験がなく国際医学界で過去に発表されている論文や報告書を確認していますが現時点では発見できていません」首相官邸での立野官房長官の緊急記者会見に続いて自衛隊中央病院でもマスコミに対する病状説明が行われた。この予定は事前に周知してあったので首相官邸の方は記者クラブの番記者だけの素通りに近く、新聞社やテレビ局はこちらにベテラン記者を投入している。しかも病院では官邸では排除されている雑誌社の記者も参加できるので異様に熱気を帯びていた。
「それでは記事にならないので推定でも良いですから病名を付けて下さい。記事にはクエッションマーク(=?)を添付しますから大丈夫です」新聞社のベテラン記者の実用的な要望に同業者たちは感謝するようにうなずいた。
「病名不明なものは不明ですから無責任な診断を下す訳にはいきません」「この病院で診断がつかないんなら別の病院へ転院させた方が良いんじゃないか」「総理が健康診断を受けているのは・・・鼻の手術を受けたのは品川のクリニックだったな」ベテラン記者たちは独り言で情報を交換することもある。石田首相が2023年2月に全身麻酔で慢性鼻腔炎の手術を受けたのは耳鼻咽喉科の専門医院(病床数は3台なので20台以上の病院にはならない)だったので今回は対象外だ。
「さっきの官房長官の説明を聞いていると慢性的な寝不足が一気に出たんじゃないかって言うことだからそれでいこう」「一国の総理大臣が寝不足で意識不明じゃあ情けなさ過ぎないか」「病院が診断を下さないんだから仕方ないだろう」病院側がテレビ局の記者の質問に答えている間に新聞の記者たちは雑談での打ち合わせを始めた。その声が大き目なのは説明を回避する病院側への挑発でもある。
「総理が意識を取り戻す時期は何時頃になりそうですか」「現時点では脳波は正常ですが手の甲に針を刺す刺激には脳波の変調はあっても表情や呼吸の反応はありません。したがってこの状態が何時まで続くかを推定することは不可能です」新聞記者からは手下のように見下されているテレビ局の記者の質問は核心に迫ってきた。先ほどの官邸での記者会見で立野官房長官は「自分が臨時代理として首相の職務を遂行する」と説明したが、その期間が長引けば政権交代の可能性も生じてくる。
「もう1つ確認ですが、この病院に搬送されてきた時点で総理は意思表示していましたか。していたのならどの程度のレベルでしたか」「救急車で搬送された時、総理は完全に意識を喪失している状態でした。それは奥さんがシャワー室で倒れているのを発見した時点から担架に寝かせてアンビランス(救急車)に運び、病院に到着するまでも同様だったと報告を受けています」「そうですか。意思表示はなかったんですね」テレビ局の記者が念を押して質問を終えるとその意味の重大性を理解した記者たちの間でざわめきが起こった。2000年4月2日に小渕恵三首相が脳梗塞で倒れた時、青木幹雄官房長官が「臨時代理の指名を受けた」と説明して職務を代行した。ところが病院関係者が撮影したと言われる集中治療室で酸素吸入器を鼻に挿入され、脳波などの計測機器の端末を装着されて薄く白目を剥いている写真が流出すると「脳死」説が公然化して青木官房長官の臨時代理の正統性が疑問視されるようになった。更に5月14日に亡くなるまでに青木官房長官と森喜朗、村上正邦、野中広務、亀井静香の自民党の重鎮5人組が後継政権構想を固めた時も「小渕総理と相談した結果」とうそぶいていた。この件を教訓にしてそれ以降の政権ではあらかじめ臨時代理を指名・公表するようになっているが、この質問はそこから先の対応を「石田首相の意志」とする二番煎じを封印したことになる。
「そうなると石田総理があくまでも逃げてきた防衛出動を臨時代理に過ぎない立野官房長官が発令することはできませんね」テレビ局の記者の手柄を雑誌記者が引き継いだ。雑誌記者は「売れればそれで良い」と割り切っているため「社会の木鐸(不正を糺す棒)」を気取る新聞や視聴者の感情を最優先するテレビ局のような躊躇が働かない。
「私は自衛隊員ですから政治的な発言は控えたいと思います」「私も同様です」「私もです」白衣を着ている院長以下は記者たちが忘れていた肩書を持ち出して回答を拒否した。この会見の中継を閣議室で見ている立野官房長官は双木外務大臣と顔を見合わせた。
- 2023/08/30(水) 13:43:42|
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