明治13(1880)年の明日8月31日は萩の私塾で吉田寅次郎の狂気に感染したテロリストたちに投資し、その反乱が成功したことで身の程知らずな名誉を獲得した「死の商人」・白石正一郎(敬称・肩書不要)が佛罰を受けて地獄に堕ちた日です。
赤間関と呼ばれた現在の山口県下関市は毛利藩が慢性的財政難に陥った際、瀬戸内海と日本海の航路で大阪と函館を結ぶ北前船が2つの海を接続する寄港地として購入せざるを得ない飲料水や食料の一方的な値上げによって返済資金を稼いだように船頭や水手(かこ=乗組員)に必需品を売りつけ、積んできた荷物から買い取った品物を藩内や対岸の街で売りさばくことで暴利をむさぼっていた悪徳商人の巣窟でした。
中でも白石の生家である小倉屋は長府支藩御用の萬問屋(よろずどんや)として米、煙草、酒、茶、塩から反物や材木などを手広く商うだけでなく質屋も営む大店(おおだな)で、白石は幼い頃から和歌や漢文、国学などを学び、その人脈から島津藩士の西郷隆永(隆盛は父親の諱の誤用)さんや清水寺の月照上人、国学者の平野道臣さん、久留米の水天宮の神職の真木和泉さん、土佐の稀代の悪徳武器商人だった坂本龍馬(敬称・肩書不要)などが江戸や京都と往復する時には寄宅するようになり、彼らを通じて次第に「尊皇攘夷が社会の趨勢であり、先行投資すれば儲けになる」と商人の勘が働くようになって毛利藩のテロリストの頭目の高杉晋作(敬称・肩書不要)や久坂玄瑞(同前)などが京都で幕臣や西洋学者、開明派文化人を暗殺し、完成したイギリス公使館の焼き討ちや外国人殺害のテロを援助するようになりました。その金額は高杉が庶民を集めて奇兵隊を組織した時の武器と弾薬の購入費、反乱を起こしてからの戦費などを含めて各藩が苦しい財政事情の中で軍備を拡充する予算を凌駕する規模でした。
こうして暴走する過激派のテロが次第に討幕の気運を呼び起こすと毛利藩は260年前の関ケ原の合戦の敗軍の総大将でありながら減封で許された大恩への逆恨みを晴らす好機として反乱を主導することになり、白石も士分に取り立てられた見返りに戦費に有り金をはたくことを強いられ、戊辰戦争が終わった時点で小倉屋は破産していました。
ところが明治新政府は白石に用立ててもらった莫大な戦費を返済することはなく資金がかからない見返りとして与えたのが廃佛毀釋の凶風の発生源として壇ノ浦に入水して崩御した安徳天皇や平家一門の供養のため勅命によって建立された阿弥陀寺を赤間神宮にして与えた2代宮司の地位でした(阿弥陀寺の住職を強要的に還俗させた初代宮司は放逐した=現在、赤間神宮は存在を認めていない)。
しかし、白石は宗教的資質を持たない商人であり、窮乏もしていたので阿弥陀寺の本尊の阿弥陀如来像や脇侍の観世音菩薩像と大勢至菩薩像に始まり、勅願時として所蔵していた膨大な寺宝を記録も残さず売り払っただけでなく(脇侍の観世音菩薩像が下関市内の寺の本尊になっていることだけ判明している)、僧侶の生活の道場だった庫裏を料亭・春帆楼にして客に酒食を提供して女性と戯れさせて多くは性行為に及ぶ風俗施設にしています。この大罪に神道のお祓いでは効果はなく間違いなく地獄へ堕ちていることでしょう。
- 2023/08/30(水) 13:44:59|
- 日記(暦)
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