「防衛省行治命489号・・・」立野首相臨時代理は閣僚たちが無反応=黙殺しているのを見切ると双木外務大臣と2人でオンライン映像の釜田防衛大臣の顔を注視した。すると釜田防衛大臣は筆ペンで書類に署名して花押で決裁した。続いて防衛省として発令する治安出動の行動命令第489号を読み上げた。
「防衛省は自衛隊法第78条に基づく治安出動として緊急事態の特別措置に関する令和×年度内閣府布告第1号による警察法第73条に基づく警察長官の権限委託を受けて別図に示す我が国領域を不法占拠し、武器を保有・使用して多くの国民を死傷させているロシア軍を制圧、排除するために行動する。統合幕僚長は陸上自衛隊並びに海上自衛隊、航空自衛隊を監理統制して任務を遂行せよ。細部は別に示す」統合幕僚長は警察庁長官と同じ行政指定職8号なので首相や防衛大臣の指揮権を移譲することに問題はない。
「命令が長い軍隊は弱い」と言う軍事常識がある。軍隊が行動する時に上層部が細部にわたって指示を与えなければ無軌道に暴走し、組織が混乱するようでは指揮官以下参謀の能力が低く、将兵の規律心が欠落していることを自己申告しているようなものだ。
強い軍隊であれば攻撃目標を示されれば指揮官が独自に敵情視察を命じ、必要な人員と武器弾薬を要求し、手に入った戦力で作戦計画を立案して攻撃を実施する。その判断や行動は常に上層部の意図を体していて部下たちも厳正に命令に従い任務を遂行する。尤も現代戦においては作戦規定=ROEを部隊に周知徹底することが指揮所演習=CPXを含む演習の目的になっているので命令が短くても混乱は生じない。
逆に日露戦争において稚拙な作戦指揮で多大な犠牲を出した第3軍司令官の乃木希典愚将がヨーロッパで高く評価されているのは誰が見ても間違っている堅牢な要塞への正面攻撃を繰り返し、それに数万の将兵が従って進んで死んで逝った日本人特有の犠牲的精神を乃木愚将の指揮能力と誤解しているからだ。おまけに日露戦争以降は最高の軍功を挙げた海軍の連合艦隊司令長官・東郷平八郎元帥と陸軍の満州軍総司令官・大山巌元帥が共に鹿児島県出身だったので戦勝の手柄を独占されることを嫌った山口陸軍閥が大山元帥や同じく鹿児島出身の第1軍司令官・黒木為楨大将、野津道貫大将を差し置いて満州軍の足を引っ張り、国家を破滅の危機に引き込んだ山口県出身の乃木愚将を悲劇の名将にして組織を挙げて喧伝していた。合理的評価など有ったものではない。
「それでは明日をDデイとします」「ニイタカヤマノボレだね」「ヒノデハヤマガタの方が先でした」防衛省中央指揮所の担当者が映像を統合幕僚長に向けると即座に反応したが声で出演した釜田防衛大臣が水を差してしまったようだ。
「Dデイ」とは1944年6月6日のノルマンディ上陸作戦で連合軍が用いた作戦決行の略号で「D」は「ダイ=死」を意味するとも言われている。ただし、この史上最大の作戦で用いられたことが有名になって秘匿性を失ってしまい以降は何かをやる時のミリタリー・スラング(軍隊俗語)として使い続けられている。一方、ニイタカヤマノボレは昭和20年12月8日に連合艦隊司令部がハワイ北方海域に展開している機動艦隊に打電した略号だが、その6時間前にシンガポールを攻略する陸軍部隊がマレー半島に上陸した時の略号はヒノデハヤマガタだった。つまり対米英中戦争は真珠湾のアメリカではなくマレー半島のイギリス相手に始まったのだ。
「今の会話は当然、作戦決行まで特定秘密に指定します。閣僚といえども漏洩すれば警察に逮捕されます。この場合は自衛隊かも知れません」「それは脅迫か」「我々を信用しないで特別代理が務まるか」立野首相臨時代理の説明に後ろめたいことがあるらしい閣僚たちが声を荒げて抗議した。すると双木外務大臣が冷水を撒き始めた。
「信用できれば何も言いません。これまでも自衛隊の行動に関する情報が各省庁の労組を通じて中国に流出していることは外務省と自衛隊の調査で把握しています。民政党政権の時も与党側の政策資料として内局の官僚に最高度の秘密情報を提供させて中国に流していたことは常識ですが、まさか我が党の閣僚までが・・・」双木外務大臣の嘆きに閣議室の空気が氷点下まで急落し、空気圧が数倍増になった。それが石田首相の亡国的消極姿勢に同調してきた戦時内閣の実態だった。
- 2023/09/01(金) 15:39:25|
- 夜の連続小説9
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0