fc2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

9月3日・脱獄王・西川寅吉が網走刑務所から仮出所した。

大正13(1924)年の明日9月3日に日本最多の公式脱獄回数記録を持つ西川寅吉受刑囚が無期懲役刑で収監されていた網走刑務所から仮出所しました。
西川さんは安政元(1854)年に伊勢国多気郡御糸郷佐田村=現在の三重県多気郡明和町の被差別集落の貧農の次男として生まれましたが、幼い頃から運動神経と体力、さらに胆力が抜群でした。そんな西川さんは14歳の時に可愛がってくれた叔父が博打の揉め事で殺されたため「仇を討とう」と憤激して刀を持って加害者を襲い、家に火を放った華々しい犯罪デビューを飾りました。間もなく警察に逮捕されると14歳でも放火殺人未遂の凶悪犯だったため無期懲役の判決を受けて三重県内の牢獄に収監されました。
ところが監獄内では幼い上、犯行の動機が当時は美談とされていた仇討ちだったため囚人だけでなく看守からも可愛がられましたが、やがて仇(かたき)が生きていることを知ると「自分の手で本懐を遂げたい」と思い立ち、それを周囲の囚人たちが協力したため最初の脱獄に成功したのです。ところが仇を探している間に逮捕されて三重県内の監獄に戻されますが、またもや他の囚人たちの支援で脱獄すると仇討ちではなく博徒として全国各地を渡り歩きました。
それでも再々度捕縛されると今度は秋田にある死刑にならない重罪人専用の集治監に収監されましたが、2度の脱獄で修得した技術と要領で今度も脱走に成功しました。この時、5寸釘を打ち抜いた板を踏んで怪我をした足で捕まるまで12キロ走り抜いたことで「5寸釘寅吉」の仇名がつきました。
その後も収監と脱獄を重ねますが東京の小菅集治監から北海道の日本海側の樺戸集治監に移されるとそこは有名な重罪人が集められていて鹿児島と山口の権力抗争を背景にした贋札事件の犯人とされる日本画家の熊坂長庵さんや水泳に長けていることから水中での犯行を得意としたため海賊と呼ばれた大沢房次郎さん、小柄な身体を活かして巧みに逃亡するため明治の鼠小僧と呼ばれた根谷新太郎さんなどの壮々たる顔ぶれで、後に吉村昭さんが「赤い人(=当時の囚人服の色))」と言う伝記小説にしています。
西山さんはここでも脱獄に成功して熊本で捕縛され、今度は北海道でも内陸の空知集治監に収監されましたが明治23(1890)年に刑務所として網走に移設されました。すると空知集治監では人間関係にも恵まれたためそれまでの反抗的態度を改めて模範囚になり、やがては刑務所の敷地内では自由に行動できるほど信頼されるようになりました。
それでも放火殺人未遂に始まり、度重なる脱獄と逃亡中の窃盗などの多くの犯罪歴では無期懲役の判決を緩めることは許されず本人も獄死する覚悟を決めていましたが、当時の平均寿命を大幅に超える70歳代になると刑務所の職員の間でも同情の声が高まり、懸命な努力の結果、71歳になっていた西山さんの仮出獄が決定したのです。
仮出獄後は興行師に雇われて波乱万丈の人生を語って喰いつないでいましたが、昭和になって息子と言う人物に引き取られて昭和16(1941)年に87歳で亡くなりました。現在も博物館網走監獄の正門前には枯れ木を抜いている西川さんの像が展示してあります。
  1. 2023/09/02(土) 15:18:18|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<続・振り向けばイエスタディ597 | ホーム | 続・振り向けばイエスタディ596>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/tb.php/8650-1f3f8043
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)