fc2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

9月7日・沖縄戦で日本軍が降伏文書に調印した。

昭和20(1945)年9月2日に戦艦・ミズーリの甲板で日本国代表・重光葵外務大臣と日本軍代表・梅津美治郎参謀総長が降伏文書に調印してから5日後の明日9月7日にアメリカ軍嘉手納基地内の第10軍司令部(沖縄本島の国頭郡越來村とする記述もある)で沖縄・奄美方面の日本陸海軍が降伏文書に調印して沖縄戦も終結しました。
沖縄・奄美方面での戦闘は昭和19(1944)年10月10日の空母艦隊の艦載機による沖縄本島大空襲に始まり、昭和20(1945)年3月23日前後にアメリカ艦隊が沖縄本島を包囲すると3月26日に慶良間諸島の木製ボートの特攻兵器・震洋の基地を攻撃・破壊した後、4月1日に沖縄本島中部に上陸して以降、戦闘は島内だけで行われ南の先島・八重山諸島や北の奄美諸島は艦載機の空襲を受ける以外は蚊帳の外に置かれました。
大本営はアメリカ軍の戦略を見誤って昭和19年12月に第32軍から第9師団を取り上げて台湾に移動させる失策を犯していますが、先島の第28師団を沖縄本島に移動させる穴埋め策は考えなかったようです。
こうして約90日間の激戦を傍観者として過ごしながら沖縄本島南部の摩文仁で第32軍の首脳陣が集団自死して組織戦闘が終結すると取り残された両方面の各守備隊は牛島満軍司令官の「最後まで敢闘し、悠久の大義に生くべし」の最期の訓示を真摯に受け留めて「最後の一兵まで戦って後を追う」と覚悟して陣地構築に励みましたが、それも虚しくアメリカ軍は「本土決戦」に向けての準備に専念したため蚊帳が塀の外になりました。
そうしてアメリカ軍は塀の外の日本軍守備隊は無視して沖縄をマリアナ群島や硫黄島に続く本土空襲の基地として最大限に活用して日本を追い詰め、8月14日のポツダム宣言受諾の通知を受けて停戦しましたが、沖縄のアメリカ軍地上部隊・第10軍は降伏文書に両軍の責任者が調印し、正式に終戦が成立するまでは直接の接触を避け、艦艇や航空機による監視や要請を受けた医薬品の人道的提供などの平和的な関係を維持していました。
そんな中、8月29日に糸満市真栄里の鍾乳洞陣地に籠っていた山形の歩兵第32連隊がアメリカ軍に降伏し、続いて全ての沖縄・奄美方面の日本陸海軍にも降伏文書の調印式の開催が通知されました。調印式には先島から第28師団長・納見敏郎中将、奄美から独立混成第64旅団長・高田利貞少将、海軍沖縄方面根拠地隊参謀長から沖縄を脱出して横須賀鎮守府付で敗戦を迎え、この式のために沖縄方面根拠地隊司令官に任命された加藤唯雄少将が出席して調印し、アメリカ軍側は6月18日に糸満市真栄里で戦死したバックナー中将の後任で蒋介石・国民党の軍事顧問として軍として機能する組織ではなかった国民党軍をアメリカ軍式に鍛え直した事実上の最高指揮官・ジョセフ・スティウェル大将が承諾の調印をしました。
こうして終戦が成立するとアメリカ軍が沖縄・奄美の島々に配属され、日本軍から業務を引き継いで占領政策を開始しましたが、降伏文書に調印した納見中将は落下傘降下したアメリカ軍パイロットの殺害を指示した罪でB級戦犯に指定されたため日本兵の内地帰還に目途をつけた後、12月13日に宮古島で自決しました。
沖縄戦降伏文書調印左から納見中将、高田少将、加藤少将
  1. 2023/09/06(水) 15:38:07|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<続・振り向けばイエスタディ601 | ホーム | 続・振り向けばイエスタディ600>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/tb.php/8658-edaa7db5
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)