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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

9月10日・意外な人の祖父・影佐禎昭中将の命日

昭和23(1948)年の9月10日は河野洋平(敬称・肩書不要)と共に内閣総理大臣になれなかった唯2人の自由民主党総裁の谷垣禎一さんの祖父である影佐禎昭中将の命日です。ちなみに谷垣さんにとって影佐中将は母方の祖父ですが敗戦の5カ月前の3月生まれなので現役の将軍だった影佐中将の1字をもらって命名されたようです。ちなみに大平内閣で文部大臣を務めた父親の名前は専一なので合成ではあります。
影佐中将は明治26(1893)年に現在の広島県福山市で旧浅野藩士の家庭に生まれました。幼名は亨で陸軍大学校に入校中に改名しました。小学校を卒業後、姉が住んでいた大阪に出て市立の中学校から陸軍士官学校に26期生として合格、同期には硫黄島の栗林忠道大将、無類の戦さ上手と賞賛された宮崎繁三郎中将、陸軍中野学校の初代校長の秋草俊少将や敗戦後に韓国軍で活躍した留学生など綺羅星の如き将帥たちが揃っています。
そんな26期で大正3(1914)年に優等の成績で卒業し、続く大正6(1917)年の砲工学校も優等でした。さらに大正12(1923)年には栗林中尉と共に陸軍大学校に35期生として修了すると大正14(1925)年から昭和3(1928)年まで東京帝国大学政治学科に公費入学しています。
その後は参謀本部勤務になって大陸で活動するようになり、軍の内外で中国通として名を売ると満州事変直前の昭和11(1931)年9月には「蒋介石の忘恩の挙は許し難く言語道断である。支那相手の平和的解決は困難であり最早戦争を避けることはできない。諸君らが陸軍の後援者となることを切望する」と国民向けの談話を発表しています。
大陸での武力紛争が泥沼化すると敗戦後の極東軍事裁判=東京裁判のA級戦犯として死刑になった板垣征四郎大将や土肥原賢二大将などと共に裏舞台で暗躍し、国民党軍の分裂と友軍相撃を画策しました。その資金源は中国国内での阿片の密売だったと言われています。
ところが武力による蒋介石政権打倒と中国支配を標榜する東條英機首相からは国民党を利用しようとする影佐少将の策謀は「甘い」と断定され、大陸での政治工作から遠ざけられました。昭和17(1942)年に元の砲兵に戻されて満州北部の砲兵部隊の指揮官に発令させられると昭和18(1943)年にはラボールの第38師団長に転任しました。
日本ではラボールを島の名前と誤解していますが実際はニューブリテン島北東部の半島の地名で、島の大部分はアメリカ軍、オーストラリア軍、ニュージーランド軍に奪還されていて影佐中将は生き残った成瀬支隊に「総員玉砕せよ」と全滅を命じています(成瀬支隊の兵士だった水木しげるさんが実体験を描いた作品の題名にしている)。
そして敗戦を迎えると国民党政権から戦犯指定を受けて逮捕・収監を要求されましたが肺結核を発病していたため帰国して医療刑務所に入院し、そのまま亡くなりました。
影佐中将は誰でも信奉者にする天性の人たらしで敵さえも利用する稀代の策謀家と評されていますが孫の谷垣さんは野党・自民党の総裁として致命的失策続きの民主党政権を糾弾するどころか易々と手玉に取られましたから所詮は同郷・同派閥の宮澤喜一首相の腰巾着だった父親似なのでしょう(同様の岸田文雄現首相は再来か?)。
  1. 2023/09/10(日) 15:09:35|
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