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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

9月13日・毛沢東の後継者だった林彪元帥が亡命途中に事故死した。

1971年の明日9月13日に抗日戦争と国共内戦で英雄的軍功を上げて元帥にまで上り詰め、毛沢東主席に後継者に指名されながら毎度の猜疑心を受けてソビエト連邦に亡命を図った林彪(リンピョウ)元帥がモンゴルの砂漠で墜落死しました。
林彪元帥は1907年に中国中央部を流れる長江の中流にある洞庭湖の北岸の湖北省黄州府黄岡県で織物工場を経営していた兼業農家の家庭で生まれました。中学卒業後は1923年に中国社会主義青年団に加盟して1925年に黄埔軍官学校に入営しています。黄埔軍官学校は国民党軍の士官を養成する学校ですが当時は孫文大総統が第1次国共合作を推進していたので社会主義青年団所属はむしろ有利に働いた可能性もあり、実際、在学中に中国共産党に入党しています。
卒業後は国民革命軍=国民党軍で小隊長・中隊長を務めましたが、人民解放軍が創軍記念日としている1927年8月1日の南昌蜂起に参加しました(軍旗の「八一」もこの日付を表している)。南昌蜂起とは林彪中隊長のような国民党軍内の共産党員を使って地域単位で分裂させて共産党軍化しようとした企みに気づいた蒋介石総統が共産党員の排除を決定したことに抗議して起こした反乱です。事件後、林彪元帥は各地で頻発する国民党軍との武力衝突を指揮しながら毛沢東主席が率いる紅軍と合流し、峡西省延安への12500キロの徒歩による敗走である長征にも同行しています。
この頃から紅軍の士気向上のために英雄の配役を受け、共産党内の軍人としての地位が急激に上昇しました。同時に英雄伝が作成され、1937年に日本との武力紛争が始まると八路軍を率いて連戦連勝だったと言われていますが、野僧は高校時代から研究していた毛沢東戦術は弱小軍が強大な敵に後方攪乱や散発的攻撃などの嫌がらせをする程度の戦術ですから英雄的活躍を発揮することは無理でしょう。ちなみに林彪さんは1938年11月に日本軍との戦闘で頭部を負傷し、ソビエト連邦での治療でモルヒネ中毒になっています。
また国共内戦では日本側についていた占領地域の軍閥を懐柔して勝利に貢献したそうですが戦勝国の戦役疲れで支援を受けられなかった国民党軍の自滅と見るべきです。
それでもこれらの軍功で10人選ばれた元帥にまで上り詰め、腰巾着に徹したことでマルクス教条主義に陥った毛沢東主席への批判によって先任の元帥や共産党内の首脳陣が次々に排斥される中で地位を盤石にし、大躍進政策の失敗で毛沢東主席が退陣して後任になった劉少奇主席が巻き返しを図る毛沢東主席の策謀で失脚すると後継者に指名されたのです。
しかし、一度地位を追われた毛沢東主席の猜疑心は病的になり、林彪元帥の腰巾着ぶりさえ面従腹背を疑うようになって、劉少奇さん失脚後に毛沢東主席が主張した「主席の地位の廃止」に反対したことで野心を疑われ、ついには軍を私有化する危険な存在として抹殺準備を指示したためソビエト連邦への亡命を実行したのです。
軍の指導者としての林彪元帥は腰巾着として文化大革命の旗振り役を努め、1965年には人民解放軍の階級制度を廃止(職務はあった)して赤い板だけの階級章を採用しています=実際は軍服の下士官兵用は胸ポケットのみ、士官用は腰ポケットつきの違いがあった。
中国人民解放軍昔の中国人民解放軍の兵士
  1. 2023/09/12(火) 15:27:05|
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