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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

このままでは「戦士の戦史」が消えていく!

野僧は大阪の和尚が小庵まで乗り込んできてブログを開設した時に「毎日更新しろ。確認するぞ」と指示していったため乏しい知識と鈍い頭で拙作・駄文を書き込むようになりましたが、初期に連載した「航空自衛隊怪僧記」と「戦士の戦史」「航空自衛隊怪談集」が意外に好評でインターネット上では軍事評論家として認知されているようです。
そんな初期のブログ記事をまだ閲覧する人がいるようで先日は某国営放送の海外向け番組の制作担当者から「『戦士の戦史』で取り上げている沖縄戦の賀谷支隊を参考にして夏の終戦日特集で放送する英語の番組で紹介したい」と問い合わせが入りました。
賀谷支隊は独立歩兵第12大隊の通称で賀谷與吉中佐以下1233名の部隊でしたが中国戦線で盗賊とゲリラを兼ねた便衣隊を相手に掃討戦を重ねて戦闘に熟練していて、昭和20(1945)年4月1日にアメリカ軍が上陸すると集積していた物資を破壊して4日間足止めにしています。そしてアメリカ軍が進撃を始めると各所で攻撃を加え、車両での追跡が不可能な不整地や木立の中を退避して場所を変えると攻撃を再開し、そのような挑発的な戦闘で日本軍が待ち受ける嘉数高地の要塞へ誘い込んで多大な出血を強いることに成功しました。その後も同様の活躍を続けたためアメリカ軍にも知れ渡り、アメリカ地上軍上層部は賀谷中佐に懸賞金を賭けて生け捕りにすることを期待したのです。
野僧は沖縄に赴任して飲み友達になったアメリカ海兵隊士官が賀谷支隊を研究していたので一緒に戦跡を回るようになりました。海兵隊士官は部隊の公開資料の戦闘詳報のコピーを持ってきたので現地で極めて実際的に賀谷支隊の戦術を追体験することができました。
ところが防府南基地に2度目に赴任した時、雑談の中でテレビが特集していた沖縄戦の話題になり、野僧が「賀谷中佐は防府市右田の出身だ」と説明した上で賀谷支隊の戦闘を詳細に解説すると航空教育隊本部のエライさんが「防府出身の著名な軍人として学生に紹介する教育資料を作成しろ」と言い出して海兵隊士官から入手した戦闘詳報や士官たちの賀谷支隊に関する研究論文を段ボール1箱分預けることになりました。すると中身は大半が英文なのでそのまま放置され、やがて野僧が転属になると「後で送る」と言うのでそのままにして赴任したのです。その後、野僧は退役して当地に小庵を結び、有り余る時間で戦史の研究を再開しようと航空教育隊に資料の返納を求めると「担当者が何回も交代して所在不明、記録もないので多分破棄したのだろう」と悪ぶれることなく答えました。
また某国営放送の担当者は野僧の説明を頼りに賀谷中佐の墓所や自宅を訪ね歩いたそうですが、野僧が空曹時代に墓参した40数年前でも敗戦後40年が経っていたので賀谷中佐の名を知る者は皆無で、防府市教育委員会の郷土史担当者や地元公民館の職員も知りませんでした。ただし、某国営放送としては激戦への参加を強要された兵士の悲劇を描くつもりだったようで結局、沖縄の反戦活動家が取材した炊事婦として同行していた老婆の「戦争体験は今でもトラウマになっている」と言う証言を中心に番組を構成していました。
このままでは日本よりもアメリカで名前と武功を知られている英雄的軍人が忘れ去られてしまう。山口駐屯地資料館は明治の陸軍閥を自賛している場合ではないぞ!
  1. 2023/09/14(木) 14:32:01|
  2. 常々臭ッ(つねづねくさッ)
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