2015年の9月17日は昭和39(1964)年の東京オリンピックを前に日本サッカーの強化を託されて8位入賞を果たし、続くメキシコ市オリンピックでは銅メダルを獲得させたデットマール・クラマー代行監督(暫定扱い)の命日でした。90歳でした。
クライマー代行監督は1925年にドイツでもフランスに近いでドルトムントで生まれ、第2次世界大戦の都市空襲で市街地の3分の2が廃墟と化す経験をして成長しました。
若い頃にはプロ・サッカー選手としてドイツ国内で活躍しましたが、膝の故障のため1951年に26歳の若さで引退すると指導者として経験を積み、西ドイツ・ユースの監督時代には18歳だった後のサッカー界の皇帝・フランツ・アントン・ベッケンバウアーさんを抜擢して英才教育を施しています。
ローマ・オリンピックが開催された1960年になると日本ではオリンピック種目でも国内の競技人口が少なく共通した基本動作も確立されずに企業・大学単位の指導者流が横行していたサッカーの強化が問題になり、西ドイツ・ユースで実績を上げてコーチ(野球とは概念が異なる)協会会長を務めていたクラマー代行監督に白羽の矢を立てました。
こうして来日したクラマー代行監督は羽田空港で出迎えた岡野俊一郎コーチに開口一番「選手はどこにいるのか」と訊ね、「練習場の近くの修学旅行生が泊まるような旅館にいる」と答えるとサッカー協会が予約していた高級ホテルではなく「そこに宿泊して生活を共にする」と言い出したのです。岡野コーチが「旅館では和室に布団で寝ていて、食事は完全和食だから」と制止しても受け付けず本当に日本旅館で共同生活を始めました。
翌日からは練習場の東京大学本郷キャンパスのグランドが整地不十分でも時間を惜しむように指導を始め、「ボールを足の甲で力一杯蹴ること」しか知らない選手たちに足の蹴る個所を使い分ける各種のキックから蹴る前のステップの変化、ヘディングのコントロールやドリブルなどの基礎を教育する一方で「実戦のための練習」として基礎動作と試合形式の練習を組み合わせて急速に練度を上げていきました。さらに全国各地でサッカー教室を開催して京都の釜本邦茂さんや静岡県清水の杉山隆一さんなどの人材を発掘しました。
そして東京オリンピックで日本がサッカー王国・アルゼンチンを破る殊勲を上げてベスト8になったのを見届けて帰国しましたが、薫陶を受けた監督・コーチ・選手たちは次のメキシコ市オリンピックで銅メダル獲得の奇跡を起こしたのです。
メキシコで観戦していたクラマー代行監督は準決勝でブルガリアに5対0で敗れて限界を噛み締めていた日本選手に「このままベスト4で帰るか、それとも銅メダルを持ち帰り新たな1ページを作るか。君たちはまだ世界を驚かすことができるんだ」と声をかけ、監督だったFCバイエルン・ミュンヘンが1975年・76年のヨーロッパ選手権で優勝した時も「人生最高の瞬間だったのでは」との問い掛けに「最高の瞬間は日本がメキシコで銅メダルを獲得した瞬間だ。私はあれほど死力を尽くして戦った選手たちを見たことがない」と答えています。そんなクラマー代行監督は2005年に創設された日本サッカー殿堂に第1号として顕彰されました。
2002年の明日9月18日は比類なき早さと圧倒的存在感で「Bullet=弾丸」と呼ばれた本名のロバート・リー・ヘイズよりもロバートの短縮形のボブで記憶されているボブ・ヘイズさんの命日です。59歳でした。
ヘイズさんはアメリカが日本の真珠湾攻撃によって第2次世界大戦に参戦して1年が過ぎた1942年12月にフロリダ州ジャクソンビルで生まれました。終戦後、徴兵対象になったアフリカ系市民による公民権運動が沸騰していた1960年代にアフリカ系対象のフロリダ農業機械大学に進学し、在学中の1962年にアメリカでは一般的な100ヤード(=91.44メートル)走で9秒2の世界新記録を出し、翌年にも自らの記録を9秒1に短縮して東京オリンピックの代表に選ばれました。
東京オリンピックを開催した日本では金髪で青い目のヨーロッパ系の選手ばかりを持て囃していましたが、陸上のトラック競技ではアフリカ系の選手の野性的な身体能力に圧倒され、中でもヘイズさんの実力とは別次元の存在感には1960年6月に西ドイツのアルミン・ハリーさんが記録して以来、4年間破られなかったため「人類の壁ではないか」と言われ始めていた10秒0の世界記録を東京で更新してくれるのではないかと言う期待が高まっていました。実際、準決勝では追い風参考記録ながら9秒91を出しました。
そして迎えた10月15日の100メートル決勝では2位のキューバ代表のエンリケ・フィゲラさん(アフリカ系)、同タイムで3位のカナダ代表のハリー・ジェロームさん(アフリカ系)に0.2秒=2メートルの差をつけて圧勝しましたが、この時期の陸上、特にトラック競技は手動式計測から電子式機械による計測への過渡期でヘイズさんは手動式計測では9秒9でしたが電子式機械では10秒0だったので公式にはこちらが採用されました。結局、10秒0の壁は1968年の全アメリカ陸上選手権で同年のメキシコ市オリンピックでも9秒95で金メダルを獲得したジム・ハインズさんが9秒9で破りました。
この100メートル走の中継で朝日放送の植草貞夫アナウンサーは疾走するヘイズさんを「黒い弾丸ボブ・ヘイズ」と表現しましたがアメリカでの愛称は「弾丸ボブ」であって肌の色には触れておらず、朝日の人間だけに公民権運動の中で禁句になっていた表現をあえて口にすることでアメリカ国内での反日感情を煽ろうとしたのかも知れません。
続いて400メートル・リレーにも出場して金メダルを2個獲得して帰国すると今度はダラス・カウボーイズに入団してフットボール選手に転身しました。
フットボールでもボールの奪い合いを演じているチームから離れた位置で待機してパスを受けて一気に突破するワイドレシーバーとして超人的走力を発揮して1966年に達成したチームとしての1試合でのレシーブ獲得ヤード記録(ボールを持って走った距離)は2009年まで破られませんでした。そのためプロボール(フットボールのオールスター戦)に3度選出され、スーパーボール(決勝戦)には2度出場し、1971年には優勝してオリンピックの金メダルに続いてチャンピオンリングを獲得しています。2009年にはフットボール殿堂に加えられました。
- 2023/09/17(日) 15:49:41|
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