2002年の9月18日は比類なき早さと圧倒的存在感で「Bullet=弾丸」と呼ばれた本名のロバート・リー・ヘイズよりもロバートの短縮形のボブで記憶されているボブ・ヘイズさんの命日です。59歳でした。
ヘイズさんはアメリカが日本の真珠湾攻撃によって第2次世界大戦に参戦して1年が過ぎた1942年12月にフロリダ州ジャクソンビルで生まれました。終戦後、徴兵対象になったアフリカ系市民による公民権運動が沸騰していた1960年代にアフリカ系学生を対象にしたフロリダ農業機械大学に進学し、在学中の1962年にアメリカでは一般的な100ヤード(=91.44メートル)走で9秒2の世界新記録を出し、翌年にも自らの記録を9秒1に短縮して東京オリンピックの代表に選ばれました。
東京オリンピックを開催した日本では金髪で青い目のヨーロッパ系の選手ばかりを持て囃していましたが、陸上のトラック競技ではアフリカ系の選手の野性的な身体能力に圧倒され、中でもヘイズさんの実力とは別次元の存在感には1960年6月に西ドイツのアルミン・ハリーさんが記録して以来、4年間破られなかったため「人類の壁ではないか」と言われ始めていた10秒0の世界記録を東京で更新してくれるのではないかと言う期待が高まっていました。実際、準決勝では追い風参考記録ながら9秒91を出しました。
そして迎えた10月15日の100メートル決勝では2位のキューバ代表のエンリケ・フィゲラさん(アフリカ系)、同タイムで3位のカナダ代表のハリー・ジェロームさん(アフリカ系)に0.2秒=2メートルの差をつけて圧勝しましたが、この時期の陸上、特にトラック競技は手動式計測から電子式機械による計測への過渡期でヘイズさんは手動式計測では9秒9でしたが電子式機械では10秒0だったので公式にはこちらが採用されました。結局、10秒0の壁は1968年の全アメリカ陸上選手権で同年のメキシコ市オリンピックでも9秒95で金メダルを獲得したジム・ハインズさんが9秒9で破りました。
この100メートル走の中継で朝日放送の植草貞夫アナウンサーは疾走するヘイズさんを「黒い弾丸ボブ・ヘイズ」と表現しましたがアメリカでの愛称は「弾丸ボブ」であって肌の色には触れておらず、朝日の人間だけに公民権運動の中で禁句になっていた表現をあえて口にすることでアメリカ国内での反日感情を煽ろうとしたのかも知れません。
続いて400メートル・リレーにも出場して金メダルを2個獲得して帰国すると今度はダラス・カウボーイズに入団してフットボール選手に転身しました。
フットボールでもボールの奪い合いを演じているチームから離れた位置で待機してパスを受けて一気に突破するワイドレシーバーとして超人的走力を発揮して1966年に達成したチームとしての1試合でのレシーブ獲得ヤード記録(ボールを持って走った距離)は2009年まで破られませんでした。そのためプロボール(フットボールのオールスター戦)に3度選出され、スーパーボール(決勝戦)には2度出場し、1971年には優勝してオリンピックの金メダルに続いてチャンピオンリングを獲得しています。2009年にはフットボール殿堂に加えられました。
- 2023/09/18(月) 14:15:10|
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