昭和53(1978)年の明日9月23日に戦前の列車としては先進的な流線型の車体から「流電」の愛称で親しまれたクモハ52系が飯田線でサヨナラ運行しました。
この時、野僧は高校2年生でしたが蒲郡高校には前年の会長(=生徒会と研究会の)が国鉄に入社していた鉄道研究会があり、野僧は会員ではなかったものの生徒会の副会長として部費の分配を担当したため鉄道研究会が活動実績を売り込みに来て半ば会員のように扱われ、校内で回覧する機関誌にも投稿させられていました。
鉄道研究会は時刻表の研究が日常の活動で授業が終わった時間(下手すると昼休みにも学校を抜け出していた)に特別列車や珍しい車体の列車が通過するとカメラを持って蒲郡駅に駆けつけ、長いホームの端に陣取って写真を撮っていました。逆に遅い時間に通過すると運動部が練習を終えてからでもホームで会いました。
そんな鉄道研究会が戦前の名列車「流電」のサヨナラ運行を見逃すはずがなく、この日は土曜日だったので豊橋14時9分発・辰野行きの出発に合わせて4時間目の授業が終わるのと同時に教室を飛び出し、校門前に呼んであったタクシーに乗り込んで(タクシー通学は禁止だった)蒲郡駅に向かうと東海道線で豊橋駅に駆けつけたのです。
その成果の写真は否応なしに見せられましたが、毎朝夕に飯田線で通学・帰宅している野僧は「流電」にも乗っていたので「この列車も見られなくなるんだな」と一抹の寂しさを覚えただけでした。ところが鉄道研究会の連中は文化祭で発表するために調べていた「流電」の知識の熱弁を奮い始め、文化祭の準備で忙しい野僧は聞かされる羽目になり、消えてしまった「流電」の知識が頭に詰め込まれてしまいました。
「流電」=クモハ52型は昭和11(1936)年から鉄道省が京阪神地区専用の急行列車として開発・製造した複数の車種の総称で外観は当時、欧米で流行していた流線型を採用して屋根にも傾斜をつけ、前面のガラスも分割して角度をつけると共に歯車比を高速用に転換して、車体構造も従来のリベット接続から全面電気溶接に転換し、剝き出しだった車輪にもカバーをかけたことで我々が新幹線を「夢の超特急」と呼んだような歓喜を以って迎えられ当初は「魚雷」、後に「流電」の愛称で親しまれました。ただし、運転室は単に空間が広くなっていただけで展望席はありませんした。
戦後も生き残った「流電」は昭和23(1948)年4月23日には三島・沼津間での高速試験で時速116キロの当時としては最高記録を出すと大阪の天王寺から和歌山を結ぶ阪和線で特急列車として活躍しました。
こうして高速度を活かした長距離列車として活躍しますが、敗戦後の復興と共に各メーカーが新型車両の開発を進めるようになり、「流電」も旧式車両として主要幹線から外されて昭和32(1957)年からローカル線でも運行距離が長い飯田線に転用されるようになり、飯田線はクラシック・トレインの運行展示場化して全国の鉄道ファンが集う憧れの路線になりましたが「流電」はその大輪の花でした。実際、線路脇に止めてあるカメラマンの車のナンバーは首都圏、関西から初めてみる遠方までありました。

クモハ52系「流電」・塗装は横須賀線仕様
- 2023/09/23(土) 14:59:46|
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