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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月2日・織田信長による高野山攻めが始まった。

天正9(1581)年の10月2日に織田信長公による高野山攻めが始まりました。信長公と言えば比叡山焼き討ち、紀州征討と言えば豊臣秀吉さんの根来攻めが有名ですが、信長公は現在の歴史家が言うようにヨーロッパ人宣教師をばかりを庇護してカソリックに傾倒していた訳ではなく、そもそも織田家は現在の福井県越前町織田荘の劔神社の神主の家系であり、本人も出陣前には寺院や神社に参拝して戦勝を祈願し、安土城内には臨済宗妙心寺派の摠見寺を建立したように真摯な信仰心を保持していました。
要するに信長公は国家鎮護を祈願し、故人の霊を供養し、衆生済度の務めを果たしている佛教教団や僧侶は尊重しても山内で僧兵を養い、広大な寺領を治めて武家に対抗できる軍事・経済力を持つ寺院は脅威と感じる以前に憎悪の対象になり、根絶やしにすることに躊躇はなかったようです。そんな信長公にとって高野山は比叡山や越前・近江・伊勢長島・三河で一向一揆を起こし、後の大坂城の大半に相当する巨大寺院城郭に籠城する石山本願寺と共に代表格でした(奈良佛教の僧兵は警備員程度に規模が縮小していた)。
当時の信長公は元亀元(1570)年に始めた石山本願寺攻めが1年経っても攻略できず宗教教団の手強さを実感し始めた自分を戒めるように元亀2(1571)年9月12日には比叡山延暦寺を焼き討ちして自己の信念を確認しましたが、この事態に高野山は使者を派遣して和睦の交渉を始めたため次の目標にはならず、信長公も引き続いて石山本願寺攻めに専念したのです。ところが地の利を活かして境が生産する鉄砲を大量に入手している紀州・雑賀の鉄砲隊が石山本願寺に加わっていることが「南無阿弥陀佛」を唱えながら槍先に進む門徒衆以上の抵抗力と判断し、その除去を狙って攻撃したのが紀州攻めの発端でした。この時は巧妙に雑賀衆の分断を図って起こした内部抗争で織田側に寝返った首領を勝利させましたが高野山は傍観者を決め込み、相変らずの交渉でお茶を濁しました。
ところが織田方の武将でありながら石山本願寺側に与した荒木村重さんの有岡城が天正7(1579)年に落城し、天正8(1580)年には朝廷の仲介で石山本願寺とも和睦すると裏切り者の荒木の残党狩りを始め、高野山が匿っていることを糾問して引き渡しを要求しましたが拒否したため境の織田勢が山内を捜索すると足軽が全員殺害される事態に立ち至りました(高野山側は「足軽が乱暴狼藉を働いたため討った」と説明している)。
すると信長公は所領の家臣に全国を行脚している高野聖を捕獲して安土に連行するように命じ、これと引き換えに荒木の残党を引き渡すように要求しましたが再び拒否したため数百人を斬首しました。
そしてこの日、高野山に約14万人もの軍勢を進めたと言われますが当時の信長公は多くの戦いを抱えていたので規模や戦闘経過は現実と齟齬している点が多く、比叡山以上に広大で峻険な山岳地帯に点在する堂宇を破壊し、山岳修行に熟練した密教僧を掃討するまでの無理はせず単なる威示行動だったのではないかとする説も有力です。
結局、信長公が天正10(1582)年6月2日に本能寺で斃れたため征討は自然消滅しました。やはり怨敵調伏の加持祈祷の法力は比叡山よりも高野山の方が強いようです。
  1. 2023/10/02(月) 15:19:06|
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