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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月4日・昭和戦前の大歌手・東海林太郎の命日

昭和47(1972)年の明日10月4日は野僧の世代には「懐かしのメロディー」の特集番組に黒い燕尾服=モーニングを着て白髪交じりのボリュームを付けた七三分けに丸いロイド眼鏡を掛けてマイクの前で直立不動の姿勢で唄うと美声と迫力に圧倒された大歌手・東海林太郎さんの命日です。73歳でした。
野僧の父方の祖父は山形県最上郡から婿養子に入ったのですが旧姓は庄司(しょうじ)でした。そのため同じ音でも漢字が全く違う東海林姓に興味を持って調べると全国に約4500世帯あってそのうち約1000世帯は山形県在住です(東海林太郎さんは秋田市出身)。ちなみに庄司姓は荘園を管理していた役職が姓になったのですが、東海道沿いの地域から赴任して林野を管理した一族が「東海の林の庄司」と名乗るようになり、音が残って役職が消えて「東海林」と書いて「しょうじ」と読む姓になったようです。
東海林太郎さんは明治31(1898)年に現在の秋田市千秋矢留町で秋田県庁の官吏の長男として生まれました。尋常小学校卒業前の明治41(1908)年に父親が南満州鉄道に転職して一家で移住することになりましたが、太郎さんは祖母の家に居候する形で残り旧制・秋田中学校に進学しました。旧制中学校ではヴァイオリンに魅了されて楽器の購入と教習の資金を満州の父親に懇願しましたが逆鱗に触れて已む無く断念しました。
大正5(1916)年に旧制中学校を卒業すると早稲田大学商学部予科に進学し、研究科に進むと当時は大流行していたマルクス経済学を学びました。
大正11(1922)年に庄司姓の女性と結婚し、大正12(1923)年に早稲田大学研究科を修了すると父親と同じ南満州鉄道に就職して満州に渡り、庶務部調査課に配置されました。ところが執筆した論文「満州に於ける産業組合」が研究科で学んだマルクス経済学そのままだったため左翼的と断定されて昭和2(1927)年に鉄嶺市にあった図書館に配属替えになりました。そんな失意の生活の中で再び音楽への思いが燃え始め、昭和5(1930)年に南満州鉄道を退職して帰国すると弟と一緒に東京の早稲田鶴巻町で中華料理店を開業しましたが妻とは離婚、その直後に再婚しています。
音楽活動の方は順調で歌手の基礎となる声楽を昭和音楽大学の創立者に学び、歌唱コンクールで入賞しながらオペラにも出演、そしてポリドールから流行歌のレコードを発売するとヒットして、昭和9(1934)年に発売した「赤城の子守歌」「国境の町」が爆発的大ヒットになり昭和の戦前を代表する歌手の地位を確立しました。
ところが敗戦後は「愛国行進曲」「麦と兵隊」「紀元2600年」「ああ草枕幾度ぞ」などの戦時歌謡のヒット曲を唄ったことで戦争への加担者の烙印を押され、昭和23(1948)年に直腸癌と診断されて4度の手術で人工肛門になったこともあり、歌手活動は控えるようになりました。それでも懐かしのメロディーには大御所として出演し、腹にさらしをきつく巻いて姿勢を正すと代名詞になっていた直立不動で変わらぬ美声と迫力の歌声を聴かせていました。9月27日に知人宅で「眠い」と言って横になったまま意識が戻らなくなり、搬送された病院で次男と妹に手を握られながら息を引き取ったそうです。
  1. 2023/10/03(火) 14:29:07|
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