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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月7日・立命館大学の創始者・中川小十郎の命日

昭和19(1944)年の明日10月7日は立命館大学の創始者にして文部官僚の枠に留まらず樺太庁の事務方トップ、内閣秘書官などを歴任した行政官でもあり、大同生命を創設した実業家でもあった中川小十郎さんの命日です。73歳でした。
中川さんは慶応2(1866)年に丹波国南桑田郡馬路村=現在の京都府亀岡市の清和源氏の経脈の郷士の家に生まれました。父親と2人の弟は戊辰戦争で山陰鎮撫使総督として赴いた西園寺公望さんが馬路村に立ち寄った時、参陣を求められて出征すると側近として働いて主従の縁(えにし)を結んでいました。明治4(1871)年に6歳で父の実弟夫婦の養子になり、明治11(1878)年に地元の尋常小学校に入学すると元佐賀藩士の漢学者の校長の内弟子として自宅兼私塾に寄宿して漢文・漢詩の英才教育を受けました。この校長が現在の石川県七尾市に転任になった時も同行しています。実はこの特別な漢学の修練は一世代に1人を出家させる武家の倣いを継承することが目的で尋常小学校を終えると臨済宗では最も厳しいとされる岐阜県美濃加茂市の正眼寺僧堂に安居(入門修行)することを命じられますが、西園寺さんの勧めで開成学校=後の東京帝国大学で就学して働いていた実母の弟が帰省して欧米式の学問を修得させるように中川家を説得してくれたので明治12(1879)年に上京し、明治17(1884)年に東京大学予備門に合格しました。予備門では夏目漱石さんや正岡子規さんと同学年でした。ちなみに受験勉強中の明治16(1883)年に17歳で結婚しています。
明治26(1893)年に東京帝国大学法学部を卒業すると農商務省を志望しましたが、面接試験で無礼な質問を受けたことに腹を立てて断り、予備門の恩師の勧めで文部省に入省しました。それからは出世街道を爆走して明治30(1897)年には文部参事官に就任しましたが、翌年の第3伊藤博文内閣で文部大臣に就任して間もない西園寺さんが病気を理由に辞任したのに連座して文部官僚としての教育行政は途切れました。
そんな中川さんは大阪で銀行の立て直しや保険会社の合併による大同生命の創設などで辣腕を奮いながら官立大学が万事に制度・法令を優先し、若者の向学心や能力とは別次元の学歴や試験結果だけで選考し、教育内容も自由な発想や思考を許さない自分の教育行政の欠陥を直視することになり、その補完として私学=京都法政学校を創設したのです。
京都法政学校の創設に当たっては政界では元老・西園寺さんが強力に後押しし、資金面では大阪での実業家として実績が、教育面では文部官僚としての人脈がモノを言って他の私学の創設逸話の定番である苦心談は聞かれませんでした。中でも中川さん自身が創設期に事務方を取り仕切った京都帝国大学とは「同心一体」を標榜し合い、官立大学が学歴などの制度上の条件で受け入れられない学生を漏らさず集めて高度な教育を施し、日本の国家としての知的水準を押し上げる足場・土台・階段としての存在を確立していきました。
現在の大学名の「立命館」は戊辰戦争後の明治2(1869)年に西園寺さんが私邸で開いていた塾の孟子の「尽心章」が出典の名称を譲り受けたもので、昭和15(1940)年に亡くなったのを機に中川さんが「学祖」と位置付けました。
  1. 2023/10/06(金) 14:36:47|
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