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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月12日・幕末の箱館病院頭取・高松凌雲の命日

大正5(1916)年の明日10月12日は戊辰戦争の最終戦・函館戦争=五稜郭攻城戦に軍医として参加して敵味方の区別なく治療に当たり赤十字精神の先駆けと呼ばれた高松凌雲医師の命日です。81歳でした。
高松先生は天保7(1837)年に現在の福岡県小郡市の庄屋の3男として生まれました。安政3(1856)年、19歳で久留米藩家老の陪臣(藩士に雇われた家臣)の養子になりましたが家風に嫌気が差して安政6(1859)年に脱藩すると養子に出ていた次兄を頼って江戸に向かい、江戸で著名な蘭方医に弟子入りしてオランダ医述を修得すると大坂の緒方洪庵先生の適塾に入門してオランダ語を学びました。さらに幕府が開設した英学所で英語も修得しました。
慶応元(1865)年に尊皇攘夷・国粋主義の狂人の息子の割に舶来趣味だった一橋慶喜公に学才を認められて専属医師に抜擢されると間もなく慶喜公が第15代将軍になったため一緒に繰り上がるように奥詰医師に登用されたのです。九州の片田舎の農家の厄介払いされた3男としては異例の出世でした。
そして慶応3(1967)年には幕府が参加したパリ万国博覧会に派遣された慶喜公の弟の外交使節に医師として随行してそのままパリ市内の医学校を併設した私立病院へ留学することになりました。その病院は「カミの家」と言う名称でしたが教会や宗教団体、公的機関の経営ではなく貴族や富豪、政治家の寄付によって運営されていて付属する貧民病院では無料で外科手術を含む治療を受けられました。
しかし、留学生活は日本の幕末の政変と争乱によって1年半で終わり、急遽帰国して江戸湾に到着した時には江戸城は薩長土肥の反乱軍に明け渡され、士道の忠義に殉じた奥羽越列藩同盟の戦いも終結して榎本武揚さんや土方歳三さんたち幕臣が立て篭もる北海道函館の五稜郭での戊辰戦争の最終戦が迫っていました。高松先生は榎本さんの元へ駆けつけると函館に病院を設立して戦争に備えました(榎本さんには「病院の運営に口出し無用」と釘を刺していた)。そうして戦闘が始まると高松さんはフランスで学んだ博愛精神を実践して敵味方に関わりなく収容して治療に当たり、敵と同室にされることに抗議する入院患者には毅然とした態度で説諭したそうです。こうした活躍によって反乱軍側にも名前を知られた高松さんは講和交渉の仲介を依頼されて反乱軍側の大病院に移って治療を再開しましたが幕臣として参戦していた次兄が収容されて最期を看取ることになりました。
終戦後は賊軍の医者として徳島藩にお預けの処分を受け、栄養失調を患うほど過酷な処遇を受けました。それでも4ヵ月後の明治3年2月には釈放されて15代将軍の斡旋で水戸藩江戸屋敷勤めになり、病院を開設してフランスで学んだ理想の医学を実践しました。
明治10〔1877〕年の西南戦争では徳川枝胤の大給恒(おぎゅうゆずる=旧氏名・松平乗謨)さまと佐賀藩士の佐野常民さんが日本赤十字社の前身になる博愛社を創設しましたが政府軍に属することに反発して個人資格で診療活動だけを実施しました。一方、明治12(1879)年からは貧困者の無料診療の組織・同愛社を設立しています。
  1. 2023/10/11(水) 16:39:23|
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