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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月15日・「胡蝶の夢」の主人公の1人・関寛斉の命日

大正元(1912)年の明日10月15日に司馬遼太郎先生が幕末の隠れた英才たちを描いた「胡蝶の夢」で幕府の奥医師から奥羽越列藩同盟の軍医になって忠義を貫いた松本良順医師や語学の天才でありながら社会の常識から逸脱した言動によって排斥され続けた司馬凌海医師と共に主人公の1人になっている関寛斉医師が腹毒自死しました。
関医師は文政13(1830)年に現在の千葉県東金市の農家で生まれました。幼いうちに儒学者・関家の養子になって英才教育をうけますが、養父の勧めで意外にも佐倉にあった順天堂に入門して松本良順医師の実父から蘭方医術を学び(中華至上主義の儒学者には反西洋=蘭学嫌いが多いが)、26歳で銚子に診療所を開いて種痘の普及やコレラの防疫に活躍しました。すると和歌山の分家から銚子の豪商・ヤマサ醤油に養子に入って眼前の太平洋を行き交う欧米列強に対抗し得る人材の育成に熱意を注いでいた当主の援助で長崎に遊学して松本良順医師が開設・運営していた医学伝習所で長崎商館のポンペ軍医に最新の西洋医学と医者としてのヒューマニズムを学びました。
ところが修了後は銚子や江戸に戻ることなく徳島の蜂須賀家の典医に取り立てられ、戊辰戦争では主家が戊辰戦争に薩長土肥の反乱軍側で参戦したため奥羽出張病院長として従軍しましたが、反乱軍は各地の戦いで幕府軍側の戦死者の埋葬を禁じていたにも関わらず個人的信条で敵味方に関わりなく治療したそうです。
このため反乱軍でも西郷南洲翁などの大人物には高く評価され、新政府や新設の軍での立身出世は約束されていましたが、それを捨てて徳島に戻って町医者として農民や貧困者の無料診療に当たり、故郷=現在の千葉県で娶った妻と共に30年の長きにわたって種痘の普及や伝染病の感染拡大の防止に活躍して幼い頃に心に刻み込まれていた儒学の「仁」とポンペ軍医のヒューマニズムを実践したのです。
関医師の医術は本人の著書「養生心得草」で養生(健康管理と予防)、運動(積極的鍛錬)、医療(適切な科学的対処)の3原則を総合的に実践することを説いているように庶民にも深く浸透し、地元では「関大明神」と呼んで崇敬していたそうです。現在も徳島市内の中徳島河畔緑地には風貌を刻んだ顕彰碑が残っています。
そんな関大明神は明治と言う新たな社会が完成形に達した明治35(1902)年になって突如、当時の平均寿命をはるかに超える72歳で前年から息子が広大な原野を買い取って入植していた菱形の北海道の襟裳岬がある下の角の東側にある陸別町に移住し、農場の管理運営に当たる一方で開拓者たちの病気や怪我の治療や健康管理、環境衛生の改善にも尽力しました。
ところがトルストイの農地解放に共鳴していた関医師は広大な関牧場が開業すると残った原野を開拓した者に無料で分け与える自作農の育成を目指しましたが経営者である息子と激しく対立して82歳にして腹毒自死を遂げ、先に亡くなっていた妻の隣りに埋葬され、やがて町の開拓の創始神として祀る関神社が創建されました。確かに司馬先生も「胡蝶の夢」の中で「高貴な単純さは神に近い」と評しています。
  1. 2023/10/14(土) 13:53:50|
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