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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月17日・白瀬南極探検隊の開南丸船長・野村直吉の命日

昭和8(1933)年の明日10月17日は白瀬矗陸軍中尉が主導した明治の南極探検隊に船長として参加して204トンの開南丸で「吠える(南緯)40度」「狂う50度」「叫ぶ60度」と呼ばれる南極海を突破して大氷原に接岸した野村直吉船長の命日です。67歳でした。
野村船長は慶応3(1867)年に現在の石川県羽咋市一ノ宮町の父と兄が北前船の船頭を務める家の二男として生まれました。成長すると函館に住んでいた兄の下で船に乗り込んでいたようです。明治37(1904)年に日露戦争が始まると兄と共に出征して陸軍の輸送船・須磨浦丸や御用船に2等運転士として乗り込んで終戦後は兄が金鵄勲章、野村船長は勲6等瑞宝章を受けました。さらに明治42(1909)年からは長崎の高等商船学校に入学して甲種船長試験に合格しています。
そんな明治43(1910)年に新聞で白瀬中尉の南極探検計画を知って面会すると日本が世界に認められる探検の偉業として目指していた北極点到達をアメリカのロバート・ピアリーさんが明治42(1909)年に達成してしまった以上、次は南極点到達しか残っていない。ところが南緯88度24分まで到達した実績を持つイギリスがロバート・スコット大佐を派遣する。ノルウェーも北極圏探検の英雄・ロアール・アムンゼンを派遣すると熱弁を奮ったため賛同して参加を申し出たのです。
しかし、明治政府は白瀬中尉の熱意と国威発揚には同調しましたが財政支援は出し渋り、肝心の船も白瀬中尉の個人的人脈で調達することになり、スコット隊のテラ・ノヴァ号が764トン、アムンゼン隊のプラム号が402トンなのに対して中古の木造帆走漁船に18馬力の中古蒸気機関を積んだ開南丸は204トンで、普通の船長であれば「世界に冠たる危険海域・南極海を突破することは不可能」と申し出を撤回するよう代物でした。それでも父や兄が冬には雪嵐が吹き荒れる日本海を150トン程度で1本帆柱の北前船=千石船で往復していた野村船長が臆することはありませんでした。
そうして南半球では夏に向かう明治43(1910)年11月29日に東京・芝浦港を出航しましたが途中で橇(そり)を引かせる犬が全滅するなど不吉な兆候に見舞われ、さらに寄せ集めの乗組員たちは野村船長や白瀬中尉の書記長=秘書に服従せず、幾多の困難を一丸となって切り抜ける下地を全く構築できないまま南極海に突入したのです。それでも野村船長の卓越した操船で遭難は免れましたが接岸できないまま冬に向かう翌明治44(1911)年5月1日にシドニー港に入港しました。
ここで野村船長と書記長は資金の追加調達のため一時帰国して(樺太犬21頭も連れ帰った)、同年11月19日にシドニー港を出航すると明治45(1912)年1月18日に接岸を果たし、白瀬中尉は領有を宣言して「大和雪原」と命名しましたがその南緯80度5分と西経156度37分は南極大陸ではなく南極鯨湾にせり出した巨大な氷原の上でした。
その後、白瀬中尉以下が周囲を探索している間に周辺海域を巡回し、2月4日に暴風の中離岸して6月20日に芝浦港に帰港しました。ただし、シドニーで発生した乗組員の内紛で殺されかけた白瀬中尉は別の客船で帰国しました。
  1. 2023/10/16(月) 15:38:23|
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