fc2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月22日・初めて日本人が処刑された攘夷テロ・鎌倉事件が発生した。

元治元(1864)年の明日10月22日に尊皇攘夷の凶風が吹き荒れる幕末に続発した外国人殺害事件=攘夷テロで初めて日本人が処刑された鎌倉事件が発生しました。
この事件以前にも文久2(1862)年8月21日に現在の横浜市鶴見区生麦で島津久光さま(藩主=大名ではなかった)の行列の前を騎乗したまま横切ったイギリス人を藩士が無礼討ちした生麦事件や文久3(1863)年9月2日に横浜居留地の警備のため上海から派遣されていたフランス陸軍の少尉が現在の横浜市南区井戸ヶ谷下町で浪士3人に斬殺された井戸ヶ谷事件が発生していましたが下手人は捕縛されておらず未解決でした。
この日、休暇を取って馬で江の島から鎌倉を周遊していた横浜居留地で勤務するイギリス陸軍の34歳の少佐と23歳の中尉が大佛を見物して午後3時頃に鶴岡八幡宮経由で現在の金沢区に向かっていたところ突然2人の暴漢に斬りつけられて深手を負った少佐は即死、中尉も現場近くの民家で医師の処置を受けましたが午後10時頃に死亡しました。
事件を受けてイギリス領事は幕府に対して生麦事件は島津藩、井戸ヶ谷事件は攘夷派の巣窟・水戸藩への忖度で揉み消した疑惑を指摘して断固たる捜査と犯人の厳罰を要求して、その期限を「馬関海峡4ヶ国艦隊砲撃事件の説明のために帰国するまで」と決めました。
この強硬な態度に先ず神奈川奉行所が情報提供を布告すると同時に住民への聞き取り捜査を開始して間もなく犯人と思われる侍2人が翌日に二子の渡しで多摩川を渡ったことが判明しました。そして現在の藤沢市で強盗を働いた2人組を捕縛して別々に拷問を加えると口を揃えて「犯人は首領の清水清次」と自白したため清水さんを主犯、2人は共犯と断定してイギリス領事に通報したのです。するとイギリス領事は見せしめのため2人を公開斬首の上、獄門に晒し、処刑にはイギリス軍士官を立ち合わせるように要求しましたが、幕府は「日本の法度で強盗の罪は牢獄内の斬首が相当」と拒否してイギリス軍士官の立ち合いと横浜市内での罪状書の掲示を認めました。
こうなると次は主犯の清水さんですが処刑の翌日に江戸の千住の遊郭に潜伏しているところを捕縛しました。清水さんの取り調べの供述書は残っていますが処刑前の市中引き回しの最中に「自分は水戸藩士だ」と自己宣伝し、イギリス側尋問を担当した通訳も「水戸訛りがある」と証言しているにも関わらず「遠州金谷の浪人の息子」と記されていてここでも水戸藩への忖度の疑惑が残っています。
またイギリス領事は事件現場での処刑を要求しましたが幕府は「大佛から鶴岡八幡宮に向かう神聖な地域だから」と拒否し、今度は横浜の鞍止坂刑場で斬首して居留地に架かる吉田橋に晒す一方でイギリス軍士官の立ち合いと横浜と鎌倉での罪状書の掲示を認めました。
さらに幕府は最初に捕縛した強盗2人を共犯者として処刑しておきながら2人組の片割れの捜索を続け、翌年=慶応元(1865)年になって噂から寺の住職の息子でありながら武士に憧れて剣術の修行に励み、還俗して旗本に仕えていた18歳の間宮一くんを捕縛すると事件を供述したためこちらも横浜の鞍止坂刑場で斬首し、吉田橋に晒しました。こうして見ると幕府も中々筋を通していますが妙なところに気を使っていたようです。
  1. 2023/10/21(土) 14:57:57|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<続・振り向けばイエスタディ644 | ホーム | 続・振り向けばイエスタディ643>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/tb.php/8750-c4bfb53f
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)