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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

10月24日・戦艦・武蔵艦長=猪口敏平少将が戦死した。

昭和19(1944)年の明日10月24日に連合艦隊が残存する艦艇を投入したレイテ湾突入作戦で戦艦武蔵が撃沈されて艦長・猪口敏平(としひら)少将が戦死じました。出撃直前の10月15日に少将に昇任しています。
猪口少将は日清戦争が終わった翌年の明治29(1896)年に鳥取県鳥取市の大工の棟梁の長男として生まれました。6歳年下の弟は軍令部の源田実やフィリピンの第201航空隊副長の玉井浅一中佐と立案した爆装した零式艦上戦闘機による体当たり特別攻撃隊に出身地の町道場から「神風(しんぷう)」と命名した猪口力平(りきへい)大佐です。
旧制・鳥取中学校を卒業すると海軍兵学校に46期生として入営しました。同期にはパイロットではないものの皇族として初めて航空部隊に配属されて「空の宮さま」と呼ばれた山階宮武彦王少佐、ニューギニアのブナで初の守備隊全滅=玉砕の指揮官になった安田義達大佐、大和級戦艦の3番艦を全面改造した航空母艦・信濃の艦長として戦死した阿部俊雄大佐、航空母艦・瑞鶴の貝塚武男大佐などがいます。
大正7(1918)年に124名中9番(皇族の首席は別格なので除外)で卒業して砲術士官になると持ち前の探求心で砲術を論理的に究明して一家言を有するようになり、大正12(1923)年に砲術科学校高等科学生、大正14(1925)年に砲術科学校専攻科学生として研究を進め、大正15(1926)年には砲術学校教官になって砲術の権威として国内外に知られ「キャノン・イノクチ」と呼ばれるようになりました。
昭和4(1929)年に少佐に昇任してからは軽巡洋艦・鬼怒の砲術長を皮切りにして水雷戦隊・艦隊参謀と戦艦・巡洋艦の砲術長・副長を歴任した後、昭和13(1938)年に砲術学校教官に戻り、翌年に給油艦・石廊の艦長として太平洋往復艦隊に参加して訪米、日米開戦直前の昭和16(1941)年に砲術科学校教頭に就任しています。同年12月8日に対米英中戦争が始まると軽巡洋艦・名取の艦長に転出しますが潜水艦の雷撃で大破したため昭和18(1943)年12月に砲術科学校教頭に復帰しました。
そうして昭和19(1944)年8月1日に戦艦・大和と武蔵を基幹とする第1戦隊に転属し、8月4日にレイテ湾突入の捷号作戦が発令されると8月12日に戦艦・武蔵艦長に就任しました。猪口艦長は出撃準備として艦体を白く塗装するように命じたため「白では目立つ」と訝(いぶか)る兵員に古参下士官たちは「死に装束だ」と答えたそうです。実際、猪口艦長は「武蔵が目立つことで敵の攻撃を一手に引き受け、大和を逃がしてレイテ湾突入を成功させようとした」との推測が海戦史の定説になっています。
この日、戦艦・武蔵はアメリカ第38任務艦隊の艦載機の集中攻撃を受け、多数の魚雷が命中した上、艦橋最上部で爆弾が爆発したため乗員の多数が死傷し、猪口艦長も重傷を負いました。そしてシブヤン海で航行不能になると艦長室で遺書を書いている猪口艦長に代わって副長が退艦命令を発令したため乗員2399名の内、猪口艦長以下1023名が戦死しても過半数の1376名が救助されて、戦艦・大和の乗員3332名の内、3056名が戦死、生存者は1割に満たない276名だった惨劇とは大差が生じました。
  1. 2023/10/23(月) 15:29:05|
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