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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

11月3日・風船爆弾の実戦投入が始まった。

昭和19(1944)年の明日11月3日から太平洋を越えてアメリカ本土を狙った風船爆弾の放出(=発射ではない)が始まりました。
風船爆弾は満州でソビエト連邦軍と対峙している関東軍がデパートのアドバルーンに着想を得てシベリアや日本海沿岸などの遠隔地を攻撃する兵器として昭和8(1933)年頃に発案し、同時期に本土でも近藤至誠少佐が1から2名の兵士を搭乗させる空挺攻撃を提案しました。しかし、採用されなかったため近藤少佐は退役して国産工業技術研究所を設立して独自に開発を進め、昭和15(1940)年に近藤元少佐が病死してからは陸軍の謀略兵器を開発していた登戸研究所が引き継ぎました。
日本では昭和元(1926)年に中央気象台の大石和三郎博士が太平洋上空の高高度を西から東に吹き抜けている強風=ジェット気流を発見しましたが海外は関心を示していなかったため対米戦争でこれを利用してアメリカ本土を攻撃すれば心理的効果が期待できると判断した陸軍参謀本部が昭和13(1938)年に「ふ号兵器」として実用化を決定しました。それまでもソビエト連邦内に宣伝ビラを撒く謀略器材や焼夷弾を投下して森林火災を発生させる兵器として開発を進めていましたが正式採用になっていませんでした。
一方、海軍でも戦果を上げていた大型潜水艦に搭載した水上機によるアメリカ本土空襲に代わって潜水艦が洋上で膨らます風船爆弾を研究していましたがこちらはゴム製でした。
風船爆弾は最も繊維が長い楮(こうぞ)製の和紙の大小600枚を蒟蒻(こんにゃく)糊で縦横の網目状の5層に貼り合わせて直径10メートルの球体にして乾燥し、その上から苛性ソーダを塗って表面を補強しました。そして15メートルの紐で吊り下げた高度保持装置と時限式投下装置に15キロ爆弾1発または5キロ爆弾4発を搭載しました(陸軍は細菌兵器を搭載する準備も進めていましたが昭和の陛下が禁じました)。
支那事変以降の戦争が長期化して金属材料の確保が厳しくなる中で機械装置や爆弾以外に金属を必要としない風船爆弾は東條英機内閣にとっても国民の戦意を高揚するために有効な兵器として毎度の大増産を発令すると埼玉県の小川和紙、福岡県の八女和紙、愛媛県の伊予和紙、高知県の土佐和紙、鳥取県の因州和紙、石川県の加賀二股和紙、岐阜県の美濃和紙の産地では24時間態勢での生産が課せられ、山の楮の木は伐採され尽くしました。一方、糊の材料の蒟蒻は芋の収穫が終わっているため生産量は決まっていて食用分が回収されたので食卓から姿を消しました。
こうして生産された風船爆弾を実戦投入するために陸軍は昭和19(1944)年9月8日に3個大隊2000名からなる「ふ号作戦気球連隊(公式には気球爆弾と呼んでいた)」を茨城県大津町に創設し、晴れの特異日とされるこの日に(実際は豪雨だった)に千葉県一宮町と茨城県大津町、福島県勿来から放出を開始し、昭和20(1945)年3月までに9300発を飛ばしました。このうち300個程度の風船爆弾は大気圏距離7700キロを飛行してアメリカ本土に到達して多少の損害を与えましたが精神的衝撃は大きく、戦後に占領軍は「恐怖を感じる」との理由で日本のデパートのアドバルーンを禁止しました。
  1. 2023/11/02(木) 14:59:45|
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