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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

11月7日・大阪城の天守が「復元」された。

昭和6(1931)年の11月7日に敗戦後に観光名所化するため全国に乱立した「復元」=「再建」と称する鉄筋コンクリート製の天守の先駆けであり(淡路島の洲本城は昭和3=1928年に建築されましたが実在しなかった単なる展望台です)、現在は「博物館大阪城天守閣」になっている天守の復元工事が竣工しました。
大阪城は地元でも「太閤はんのお城」と思われていますが、秀吉さんは蓮如妾人の子孫が一向一揆の本拠地としていた石山本願寺を天正11(1583)年から死亡する慶長3(1598)年までかけて改修したものの正室のお禰さんが住んでいた伏見城が居城=自宅であり、関白としての政務は京都の聚楽第で執っていたので大坂城(「大阪」になったのは明治以降)はあくまでも側室の淀殿が暮らす妾宅でした。
また大坂城は慶長19(1614)年の大坂夏の陣で天守ほかの建物の大半が炎上・落城した後、元和6(1620)年から2代将軍・徳川秀忠公によって秀吉時代を払拭するかのような新築に等しい全面的大改修が行われ、現存する天守台を含む石垣や櫓などは秀吉時代の石垣の上に大きく盛土した上に石を積んだもので天守と屋敷、櫓や門の位置は概ね一緒でも形状は異なっていると言われています。中でも復元された天守は最上階に木製風の物見台を設け、巨大な破風(側面の飾り屋根)を幾つも重ねるなど秀吉風を演出していますが、漆喰の白壁は江戸城や名古屋城で採用された徳川時代の建築様式で、当時の絵図でも黒塗り板壁の熊本城や松本城のような外観で描かれています。その意味では史実と全く外観が違う小倉城などの悪しき前例と言えるかも知れません。
こうして完成した新・大坂城の城主は徳川将軍であり、それは慶応3(1867)年に15代将軍・慶喜公が大政奉還するまで続きましたが、実際に大坂城で宿泊したのは3代・家光公と14代・家茂公と15代・慶喜公の3人だけで、家茂公は毛利征討の指揮を執っていた慶応2(1866)年に大阪城内で逝去しています。当然、大坂城の管理と関西地域の行政の実務を担当する大坂城代が譜代大名から選ばれました。
大坂城は3度の落雷による火災で主要な建物が焼失していて万治3(1660)年の落雷で土蔵造りの火薬庫が大爆発して天守や屋敷、櫓や橋などの多くが破損したため火薬庫は石造りに改築され、寛文5(1665)年には屋根の鯱(しゃちほこ)に落雷して築39年の天守が焼失して再建はされず、天明3(1783)年には大手門の櫓に落雷して全焼しましたが天明の飢饉の対応で再建の費用もままならず、弘化2(1845)年になって大坂商人の寄付=町人御用金で賄うことになりました。
この昭和の復元も昭和3(1928)年に当時の大阪市長が昭和の陛下の即位記念事業として提案すると25万円を出した住友家を始めとする市民から150万円(現在の45億円程度?)の寄付が集まったため公共事業としては豪勢な工事になりました。
ところが明治以降、大阪城内には陸軍の大阪砲兵工廠が置かれていて昭和6(1931)年に開館した「天守閣郷土歴史館」からの眺望も軍事秘密の保全のため大幅な制限を受けました。それでも焼失以降266年間存在しなかった天守は仰げば十分だったのでしょう。

  1. 2023/11/07(火) 14:11:00|
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