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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

11月12日・林敬三初代統合幕僚会議議長の命日

1991年の11月12日は警察予備隊を創設するに当たり内務省=警察官僚から制服組のトップに抜擢され、組織の発展に合わせて常にトップに居座り続けた林敬三初代統合幕僚会議議長の命日です。84歳でした。
林統合幕僚会議議長は明治40(1907)年に乃木愚将の第3軍の兵站参謀として日露戦争に出征して、帰還してからは陸軍省軍務局で勤務していた林弥三吉大尉(最終的に中将)の長男として生まれました。ちなみに林中将は野僧の曾祖父の青山寛少将や皇道派の真崎甚三郎大将の逆恨みを吹き込まれた過激派将校が起こした2・26事件で娘(修道女の渡辺和子さん)の目の前で射殺された渡辺錠太郎大将とは陸軍士官学校8期の同期です。林少佐は明治42(1909)年からドイツ駐在武官副官として赴任していますが当時の習慣として家族を帯同したのかは微妙です。その後、父親は昭和7(1932)年に退役するまで全国各地に赴任してシベリア出兵にも派遣されていますが、家族は東京に置いていたようで林少年は旧制・東京府立第4中学校を卒業すると陸軍士官学校ではなく第1高等学校に進学して昭和4(1929)年に東京帝国大学法学部を卒業すると当時は最高の官公庁と言われていた内務省に入省し、多岐にわたる部署(国家神道の神社局から戦後の自治庁=自治省の自治局、建設省の土木局、厚生省の衛生局、労働省の労働局など)でも治安を担当する警保局に配属されました。そして敗戦後の昭和20年10月から翌年2月までは38歳の若さで官選の鳥取県知事に就任して昭和18(1943)年9月10日に発生した鳥取地震と昭和20(1945)年7月24から28日の米子空襲の被災地の復興に当たり、内務省に戻ると地方局長に就任して昭和22(1947)年12月31日の内務省の廃止と自治庁への移行を指揮し、翌年1月1日から3月7日まで内務省廃止後の治安を暫定的に担当する内事局長官を務め、さらに宮内省から格下げになった宮内府次長、宮内庁次長を歴任するなど便利屋として酷使されました。
そうして昭和25(1950)年8月10日に朝鮮戦争の激化で日本に駐留するアメリカ軍を派遣することを決定したマックアーサー司令部が続発する在日朝鮮人の暴動騒ぎや共産主義革命を標榜する労働運動を鎮圧する実力組織として警察予備隊を設置させるとその制服組のトップである警察監(=陸将)に任命され、警察予備隊中央本部長に就任しました。その後は組織の改編に伴って警察予備隊総隊総監、保安隊第1幕僚長(=陸上幕僚長)、昭和29(1954)年7月1日に陸海空自衛隊が創設されると新設された統合幕僚会議議長に就任してそのまま昭和39(1964)年に退官するまで居座り続けました。
林統合幕僚会議議長の存在は防衛庁に現在も解消できていない禍根を残しています。それは内局に巣喰った悪徳官僚の海原治(敬称・肩書不要)は元陸軍主計大尉だったため内務省の10年後輩でも軍事については素人(父親の林中将とは完璧にすれ違いで将軍の息子でありながら陸軍士官学校を受験しなかった)の林統合幕僚会議議長を好いようにあしらって本来は選挙で国民の信任を受けた「政治家が軍を指揮する」シビリアン・コントロールを「官僚が自衛官を管理・統制する」と言う意味に曲解・変質させたのです。
  1. 2023/11/12(日) 15:47:15|
  2. 自衛隊史
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