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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

11月13日・岡崎城代・石川数正が豊臣側に出奔した。

徳川家の枝胤(血族)で愛知県幸田町の深溝城の城主だった松平家忠さんの日記によれば天正13(1585)年の11月13日に大河ドラマ「どうする!家康」では松重豊さんの重厚な演技と木村多江さんとの夫婦愛が感動を呼んだ岡崎城代・石川数正さんの出奔騒動が起こりました。
出典になっている「家忠日記」は郷土史として東照神君・徳川家康公の事跡を研究している者にとっては大久保彦左衛門忠教さんが記憶で論述した「三河物語」以上の教科書になっていて、酒井忠次さんの長篠城救援・鳶巣山砦攻撃に共に出陣した父親が討ち死にして家督を継いだ天正3(1575)年から東照神君の4男で2代将軍・秀忠公の実弟の忠吉さまが元服するまで城代として預かっていた武蔵国・忍城から本領の下総国・上代城に移った文禄3(1593)年までの日常生活の雑事から天候気象、見聞した出来事や時事放談、合戦の所見などが几帳面に記されています。なお松平家忠さんは慶長5(1600)年8月1日の伏見城の落城で鳥居元忠さん、内藤家長さんと共に討ち死にしました。
石川さんの寝返りに等しい出奔は岡崎市の郷土史研究者の間でも最大級の謎とされていて「どうする!」では前半に押し出していた「反戦平和の非武装中立論」に基づいて豊臣家との全面対決=武力抗争を避けるための自己犠牲的忠君行動になっていました。しかし、郷土史研究では家臣筆頭の酒井忠次さんが織田信長公からの嫡男・信康さまと正室・築山殿の武田家への内通の嫌疑に弁明し切れずに信康さまは自害、築山殿は斬首させることになったため代わって石川さんが対外交渉を担当することになり、伏見城に頻繁に赴いている間に徳川家臣団の一枚岩のように強固な主従関係に恐れをなした豊臣側が亀裂を入れようと筆頭格の重臣である石川さんの引き抜きを画策したと言われています。その策謀は石川さんではない家臣が交渉や挨拶に来た時、接待の席などで独自に調べた徳川家の内情をチラつかせ、それを石川さんが密告したかのように演出することで徳川家内に不信感を生じさせたと言うものです。
この頃の石川さんは伏見城に続き一向一揆の難攻不落の本拠地だった石山本願寺を巨大な城郭に改築する事業に着手している豊臣家の実力=財力を熟知しているだけに臣従を前提にした和平を主張していたので小牧長久手の合戦での勝利で自信を深めている家臣団の中では孤立して「籠絡された(流石に『裏切った』とは思われなかったようです)」「屈服した」と噂されるようになっていました。こうして徳川家中での立場の危うさを自覚した上で豊臣側との熾烈な全面対決に巻き込まれる前に自己保身を図ったと言うのが岡崎市の郷土史研究家たちの一般的な評価でした。その意味では「裏切らざるを得ない立場に追い込まれた末の出奔だった」とする同情的な見方が定着しているため石川さんについては無視することになっていて最近の大河ドラマ「女城主・直虎」でも築山殿の斬首と家臣としての復帰については脚光を浴びせても出奔については描かれず、知らない間に消えていました。ただし、「どうする!」とは違い史実では秀吉さんから信州・松本を与えられて国宝・松本城を築城、関が原では息子が徳川方に参陣して所領を安堵されています。
  1. 2023/11/13(月) 16:29:47|
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