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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

11月14日・言語学者・金田一京助博士の命日

昭和46(1971)年の11月14日は野僧が愛用していた国語辞典の背表紙には必ず監修者として名前が載っていた言語学者の金田一京助博士の命日です。
金田一博士は明治15(1882)年に岩手県盛岡市の豪商の分家の姉1人、弟6人、妹3人の11人姉弟妹の長男として生まれました。金田一家は曽祖父が米穀商として財をなし、大飢饉の時には米を放出して庶民を救済した功績で士分に取り立てられた名家でした。一方、父親は農家の出身で読み書き算盤に長けて画才も秀でていたため見込まれて金田一家の分家に婿養子には入りましたが、商才は全くなく任された事業にことごとく失敗していました。それでも本家の援助で人並み以上の教育を受けて7人兄弟は全員が東京帝国大学に進学しています。ちなみに金田一博士の「京助」と言う名前は父親が商用で京都に赴いている時に生まれたことから命名されました。その父親は子供たちを寝かせる時、平家物語や源平盛衰記を語って聞かせ、その影響を受けた京助少年は本家の文庫蔵に通って日本や中国の古典に読み耽るようになりました。
旧制・盛岡尋常中学校に入学すると時代小説・銭形平次の作者・野村胡堂さんや近衛内閣の海軍大臣になる及川古志郎大将と同級生、2年先輩には後に首相になる米内光政大将、2年後輩には石川啄木さんがいて充実した人間関係を得ることになりました。続いて仙台市の旧制・第2高等学校を経て明治37(1904)年に東京帝国大学に入学すると「まだアイヌ語の日本人研究者はいない」と言う教授の言葉に共鳴して「東北人の自分が適任だ」と言語学を専攻しました。そして明治39(1906)年に本家の伯父の援助で初めて北海道に渡ってアイヌ語の採取を始め、翌年には伯父と大学の恩師の援助で樺太にまで足を伸ばして4000語のアイヌ語の語彙を採取してアイヌ語研究に自信を深めました。
ところが大学を卒業してしまうと言語学では飯のタネにはならず、東京の中学校の教師に採用されても教員免許を取得していなかったため失職してしまい恩師の紹介で三省堂に就職しました。そんな窮状の中に石川啄木くんが転がり込んできて浪費を続けましたが金田一博士が望む「標準語を話す東京山の手の嫁」を紹介したのが唯一の恩返しでした。
その後、博覧会などで上京するアイヌたちからの言語の採取を続け、紹介された部族の長や祈祷師を訪ねて研究を進め、時には東京に呼び寄せて言語の向こうにある精神性まで探求しました。その成果を博士論文として東京帝国大学に提出しましたが審査ができる学者がおらず付属図書館に放置されたまま関東大震災で焼失してしまいました。それでも昭和6(1931)年に1458ページの大著「ユーカラの研究・アイヌの抒情詩」2巻として刊行すると、その成果は昭和29(1954)年の文化勲章として評価されました。
これほどアイヌ研究に専念・没頭していた金田一博士がどうやって多くの国語辞典を監修したのか謎ですが、実は東京帝国大学大学院の博士課程で指導していた見坊豪紀くんが後に著書「辞書をつくる」で「出版社の依頼を受けて監修したが学生では権威がない=売れないので金田一博士の名前を借用した」と告白しています。金田一博士が実際に監修したのは三省堂の「明解国語辞典」だけだそうですが野僧も愛用していました(一安心)。
  1. 2023/11/14(火) 14:31:22|
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