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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

11月18日・官営八幡製鉄所で作業開始式が行われた。

明治34(1901)年の明日11月18日に日清戦争の賠償金によって建設された日本の産業近代化の象徴・官営八幡製鉄所で作業開始式が行われました。
野僧が芦谷基地の第3術科学校輸送幹部課程に子連れで入校した時には鋳鍛工と言う新日本製鉄系列の会社の社宅だった借家に住んでいたので家賃を払いに公民館に相当する集会所に行って置いてある資料を読む機会があり、管理人も鋳鍛工の元社員だったので講義の熱弁も聞いて変に詳しくなってしまいました。
明治政府は「尊皇攘夷」を旗印にしながら実際は西洋文明に染まり切っていた薩長土肥が国家権力を握ったため日本の近代化に猪突猛進しましたが、その根幹をなす重工業には手が届かず明治20(1887)年になって岩手県に釜石鉱石山田製鉄所が開業したものの後は続きませんでした。ところが朝鮮王朝内の守旧派と改革派の対立に宗主国の清と日本が介入したことで勃発した日清戦争に勝利して20億両の賠償金を獲得した上、三国干渉によって遼東半島の領有を放棄した代償として3000万両も追加されたので現在の3億6千万円に相当する資金を手に入れることができたのです。
明治の軍人たちは昭和の軍国主義とは違った意味で政治にも深く関わっていたためこの莫大な収入を武器購入などの軍事費にすることに執着せず「国内に鉄鋼を製造する工場を建設すれば軍艦や火砲などを国産化できる」と言う見識は有していたので借用した戦費の返済に遣った以外は八幡製鉄所の建設費に充てることができました。
九州北部の漁村だった八幡が選ばれた理由は工場に隣接した港を建設すれば船舶による鉄鉱石の大量輸送が可能になり、鉄鉱石と並ぶ製鉄の必需品である石炭の必要量が近傍の筑豊炭鉱で確保できる上、高炉の冷却や鉄鉱石の洗浄などで大量に使用する水は遠賀川で取水できて労働者も近傍の博多と小倉から九州一円で募集できると言う地の利でした。
こうして明治29(1896)年3月28日に帝国議会で建設が決定すると明治政府は最新鋭の製鉄所にするべく欧米の鉄鋼業界の趨勢を調査してプロシア=ドイツのグーテホフヌンクスヒュッテ社に設計を依頼し、多くのドイツ人技術者を雇用しました。
官営八幡製鉄所は翌年6月1日に着工し、明治34(1901)年2月5日には第1高炉に火入れして5月に製鉄工場、6月に鉄鋼を圧延する工場と鋼鈑工場が稼働してこの日を迎えましたが、ドイツの製鉄はコークス(石炭を蒸し焼きにして炭素のみにする)を使用する上、鉄鉱石の質も異なるため予定の半分以下の製造量に留まり、赤字が膨らんで明治35(1902)年7月に操業停止に追い込まれました。
それでもコークス炉を建設するなどの経営努力と日露戦争の勃発によって鉄鋼の需要が激増したことで操業を再開しますが高炉の不具合が発生して釜石製鉄所の技術指導を受けて克服してからは戦前の日本の鉄鋼の大半を生産する中核的存在になりました。
そのため戦時中にはマリアナ諸島からの本土空襲が始まる前の昭和19(1944)年6月16日に中国から飛来したBー29の通り魔的空襲を受け、昭和20(1945)年8月8日にも大空襲を受けて周辺の市街地まで徹底的に破壊されました。
  1. 2023/11/17(金) 14:11:10|
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