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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

11月26日・陸上自衛隊の木下藤吉郎・渡部敬太郎陸将の命日

1997年の11月26日は小賢しい猿知恵が回りそうな風貌と口八丁手八丁で実現させる手腕から「陸上自衛隊の木下藤吉郎」と仇名されて制服組のトップ=武家の頭領である統合幕僚会議議長にまで昇り詰めた渡部(わたなべ)敬太郎陸将の命日です。
渡部陸将は昭和2(1927)年1月(=昭和元年と最後の64年は1週間しかなかった)に生まれた陸海空で初の幕僚長でした。仙台陸軍幼年学校に入営して陸軍予科士官学校を経て昭和20(1945)年に陸軍士官学校60期に入校しましたが9月2日の敗戦で軍歴は終了しました。ところが塞翁が馬なのか任官前に軍人としての身分を失ったことが幸いして公職追放にはならず、昭和25(1950)年に創設された警察予備隊に2等警査=2等陸士=足軽として入隊することができました。
そこからは木下藤吉郎のような立身出世を重ねて昭和40(1965)年1月には2等陸佐に昇任すると昭和44(1969)年9月に在ソビエト連邦防衛駐在官としてモスクワへ赴任しました。この頃のソビエト連邦は1964年10月14日に「スターリン批判」のフルシチョフ第1書記が解任されてブレジネフ書記長を中心とする集団指導体制が「スターリン回帰」を標榜していた時期で渡部2佐はソビエト連邦と共産主義の実態を現地で確認して日本への侵略を防衛するだけでなく波及を阻止することを決意することになりました。またソビエト連邦軍の軍人から「自衛官は軍人ではない」と言われたことを侮辱と受け止めて敵愾心も抱くようになったようです。
防衛駐在官に在任中の昭和45(1970)年1月には1等陸佐に昇任して帰国後の昭和47(1972)年11月からは陸上自衛隊幹部学校の研究要員、陸上幕僚監部3部防衛班長を経て新潟県の高田駐屯地司令を兼務する第2普通科連隊長と城主になり、昭和51(1976)年に陸将補に昇任して西部方面隊幕僚副長、陸上幕僚幹部人事部長になると昭和54(1979)年7月に陸将に昇任して第10師団長に就任したのです。
第10師団長としては小賢しい猿知恵を発揮して「体育訓練は戦闘服でなければ戦闘の役に立たない」と銃剣道と持続走を乙武装=半長靴で実施させることを命じたのです。このため豊川駐屯地の外周走路では第10師団の第10特科連隊の隊員はジャージに半長靴を履いて走り、中部方面隊第4施設団の第6施設群の隊員はこれまで通りジョギングシューズだったのを見ました。この結果、第10師団の隊員、特に両競技の強化選手には膝の故障やアキレス腱断絶が続発して「緩衝材が入っていない半長靴は体育訓練には向かない」ことを多くの犠牲を払って確認したのです。それにしても実戦どころか警備にも役に立たない銃剣道(警備用具は刑法の威力均衡原則が適用されるので攻撃用の長い木銃は過剰防衛になる可能性が高い)に疑問を抱くことなく乙武装での実施を命じたのも所詮は渡部陸将の猿知恵であって後に北部方面総監や陸上幕僚長として弄した派手なパフォーマンスも太閤秀吉的な虚仮脅しだったように思えてしまいます。
野僧が航空自衛隊に入っていた昭和59(1984)年には統合幕僚会議議長になりましたが海空自衛隊には影響を与えることなく昭和61(1986)年に退役しました。
  1. 2023/11/25(土) 13:27:52|
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