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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

12月2日・サディズムの由来=マルキ・ド・サドの命日

1814年の12月2日は1959年に出版された日本語訳の小説が猥褻文書に当たるとして翻訳者が告発されて最高裁まで論争が繰り広げられて有罪判決が下った「悪魔の栄え」の作者で加虐趣味の異常性質を意味するサディズムの由来になったマルキ・ド・サドことドナスイェン・アルフォーンス・ド・サドさんの命日です。74歳でした。
サドさんはルイ15世の治世だった1740年にパリのオテル・ド・コンデ=コンデ公爵の旧領地でサド伯爵の嫡子として生まれました。この頃、祖父が伯爵から侯爵に昇格して通称のマルキは侯爵、ドは貴族に冠する尊称なので直訳すれば「サド侯爵さま」です。
修道士の叔父の教育を受けて成長し、イエズス会のリセ(=日本の高校に相当する)に進学しましたが風雲急を告げる世情に軍人を志望するようになり、1756年から1763年までオーストリアのハプスブルグ皇帝が帝位継承を巡る戦争でプロイセンに奪われたポーランド西部からチェコ北部にかけての領土を奪還しようとして始めた戦争にイギリスとフランス、スウェーデン、ロシア、スペインが参戦した欧州大戦に出征しました。
終戦によって23歳で騎兵大佐として帰還すると即座に富豪の治安取締官の娘に求婚すると娘自身は断りながらも姉と引き合わせて巧みに勧められたためこちらと結婚しました。それでも2男1女を儲けています。
1766年になると南フランス地中海沿いのプロヴァンスの居城に住むようになり、ここに私用劇場を建設するなど贅沢で自由気ままに暮らしますが1767年に父親が亡くなってサド家を引き継ぐとパリでの生活に戻らざるを得なくなりました。
ところがカソリックではクリスマス=降誕祭よりも尊重しているイースター=復活祭の祝日に街角で物乞いをしていた寡婦を騙して性的暴行を加え、マルセイユの娼館で娼婦に激性の媚薬を飲ませて乱交するなどの不祥事が発覚して宗教裁判で「毒殺未遂と肛門性交の罪」で死刑判決を受けました。当時の宗教観では性行為は旧約聖書・創世記で定められているように子供を作る目的でなければならず、妊娠する可能性がない同性愛や肛門性交は重罪になりました。結局、死刑は免れて1778年にパリ東部のシャトー・ド・ヴァンセンヌに収監されて、1784年にバスティーユ要塞に移され、1789年7月2日のフランス革命直前に監獄を兼ねていたシャラントン精神病院に移されるまで過ごしました。
監獄でのサドさんは凄まじい筆力を発揮して次々に長編小説を執筆しましたが、前述の日本の裁判の論点になった通り、当時の革命思想=リベラリズムを基盤とした背徳=変質的なエロシズムや徹底的な無神論、キリスト教の権威を超越した(本人にとっての)理想や正義を論じているのと同時に猥褻で淫欲、残酷で陰湿な異常性欲と非道徳的行為を賛美する問題作ばかりで、ヨーロッパでは20世紀になるまで禁書扱いされて読者は一部の特権階級にある者だけでした。そんな1人になったナポレオン・ボナパルト皇帝は匿名で出版されたサドさんの「ジュステイ―ヌあるいは美徳の不幸」と日本で翻訳された「ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え」を読んで投獄を命じ、実際に1803年に1790年に解放されたシャラントン精神病院に再収監されてここで死にました。
  1. 2023/12/02(土) 14:41:06|
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