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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

12月7日・「日赤の父」・佐野常民の命日

明治35(1902)年の明日12月7日は組織を慈しみ守ったことで「日赤の母」と呼ばれている大給恒(おぎゅうゆずる)さんと共に日本赤十字社の前身の博愛社を創始した「日赤の父」・佐野常民さんの命日です。79歳でした。
佐野さんは文政6(1823)年に佐賀郡早津江村=現在の佐賀市で藩士の5男として生まれました。天保2(1831)年に8歳で藩医の佐野家の養子になると藩校・弘道館に入校したのを皮切りにして英才教育のように当時の最高レベルの人物たちに師事した上、島津藩と並び欧州の近代文明の導入に積極的だった鍋島藩が長崎に開設された海軍伝習所に派遣した44名に加えられ、修了後には鍋島藩がオランダから購入した軍艦の運用と西洋式造船所の建設に携わって幕府発注の蒸気機関の製作にも成功しました。
それらの活躍によって慶応3(1867)年には幕府が派遣したパリ万国博覧会の使節団に選ばれてヨーロッパで西洋文明と同時に医者として赤十字の精神に深く感銘を受けて国家体制が大きく変わった明治元(1868)年に帰国しました。 
明治新政府では主に海軍の創設と西洋式灯台の設置に当たりましたが医者が本業であることを士分の同僚たち(特に同じ佐賀藩閥)から戦いの修羅場を潜っていない部外者扱いされたため産業育成のために博覧会の開催を担当するようになりました。その一方で明治12(1879)年には廃佛毀釋や極端な西洋化によって日本の至宝である文化財や古美術品が海外に流出するのを防ぐため美術団体を設立して亡くなるまで会頭を務めました。
そんな明治7(1874)年に佐賀の乱が発生すると藩士たちは戊辰戦争の幕府軍と同じように抜刀して政府軍の銃や砲に立ち向かって悲惨な最期を遂げたのです。さらに明治10(1877)年に西南戦争が勃発すると政府軍側も戊辰戦争で賊徒とされた奥羽越列藩同盟の旧藩士たちが参陣していたため政府・軍の上層部は負傷者の医療処置には消極的で、同様の惨劇が繰り返されることを危惧して明治政府に赤十字社と同様の活動をする博愛社の設立を申請しましたが、戊辰戦争でも幕府軍側の戦死者の埋葬を禁じた薩長土肥は人道精神など持ち合わせておらずあえなく却下されました。そのため現地軍司令官の有栖川熾仁親王に直訴して政府軍の医療機関として設立されたのです。しかし、この政府軍の機関としての設置は「国際赤十字の中立の原則に反する」として同じ使節団でフランスに留学して戊辰戦争の函館病院で敵味方を区分しない医療活動を実践した先駆者の高橋凌雲医師からは参加を断られました(個人資格で現場での医療活動を実施した)。
その後も博愛社は翌年に発生した磐梯山の噴火でも医療活動に従事し、東京に博愛社病院を設立し、明治20(1887)年には日本赤十字社に改称して国際赤十字に加盟しました。義和団事件や日清戦争でも海外に医療団を派遣しています。
ちなみに佐野さんは幕末の藩主・鍋島直正さん、明治新政府の司法卿として日本の法整備を進めた江藤新平さん、内閣総理大臣になり早稲田大学を創設した大隈重信さん、北海道開拓に尽力した島義勇さん、外務卿や内務大臣を務めた副島種臣さん、東京府知事や初代文部卿、元老院議長を務めた大木喬任さんと共に「佐賀七賢人」に数えられています。
  1. 2023/12/06(水) 15:55:12|
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