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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

12月10日・神風特別攻撃隊の実行犯・玉井浅一大佐の命日

昭和39(1964)年の明日12月10日は特別攻撃隊に反対して紫電改による戦闘機部隊を創設したと言う欺瞞の武勲を喧伝して参議院議員になった源田実大佐と「特別攻撃隊は全て志願者で編成した」と言う自己弁護を兼ねた特別攻撃隊賛美の虚構を語り続けた猪口力平大佐と共に神風(しんぷう)特別攻撃隊を創設・指揮したフィリピンの第201海軍航空隊副長だった玉井浅一大佐の命日です。61歳と350日でした。
玉井大佐は明治35(1902)年に愛媛県松山市で生まれ、旧制・松山中学校から海軍兵学校に52期生として入営しました。同期には昭和の陛下の実弟の高松宮宣仁親王大佐や第3代海上幕僚長になった庵原貢大佐、前述の源田実大佐、猪口力平大佐の3悪トリオだけでなく真珠湾空襲の時、「トラトラトラ=われ奇襲に成功せり」を打電した淵田美津雄大佐や中国戦線と開戦直後のマレー半島沖海戦で活躍して「陸攻の神さま」と呼ばれた入佐俊家中佐などの名パイロットがいます。
玉井少尉も大正13(1924)年に卒業後は飛行士官の道を進み、昭和4(1929)年に飛行学生19期を修了後は各地の航空隊や航空母艦を渡り歩き、昭和16(1941)年9月に筑波航空隊の飛行隊長に着任して2ヵ月後の12月8日に第2次世界大戦に参戦しました。戦時下も中佐に昇任していたため飛行隊長や航空隊の副長として太平洋を股にかけて戦況が劣勢に陥っていた昭和19(1944)年にフィリピンの第1航空艦隊第201航空隊の副長に転属しました。第201航空隊ではアメリカ軍の侵攻・上陸を予測して戦闘機で艦艇を撃沈する手段として増槽タンクの代わりに250キロ爆弾を装着した爆撃戦闘機=爆戦として体当たりする特別攻撃を提案して指揮下の第301飛行隊長を中心に研究と訓練を始めました。これに第1航空艦隊の参謀だった同期の猪口中佐も共謀し、東京の軍令部では源田中佐が根回しを担当したようです。
そこに山口多聞中将亡き後は海軍の飛行士官の首領=ドンになっていた大西瀧次郎中将が大航空艦隊司令官として着任したため猪口大佐は神風特別攻撃隊の回想記で「絶大な崇敬を受けている大西司令官から特別攻撃隊編成の意向が示されると全ての戦闘機搭乗員が即座に志願した」と虚言を弄していますが、実際は玉井中佐が指揮官に指名した同郷の松山出身で飛行士官課程の教え子の関行雄大尉も即答は避けて「一晩考えさせてくれ」と自室に戻り、翌朝になって志願したと言われています。また急ごしらえにしては人選が万全(期別や人間関係まで考慮して配置している)で実戦での操縦も十分に練成されていて事前に準備を重ねていたのは明らかです。
その後は温厚な人格者と言われていた玉井中佐は殺気立った人物に豹変しますが、敗戦後は多くの特別攻撃隊指揮官が自死した中、自刃した大西中将の「遺書」に諭されて「君たちだけを死なせて」故郷に戻り、復員した軍人の職業の斡旋の仕事につきますがそれも数年で終わると周囲の冷たい視線に晒されながらの窮乏生活に陥り、そんな様子を見た知人から「特攻隊員の霊を弔わなければ何をやっても浮かばれない」と言われて日蓮宗の坊主になると毎朝の水垢離を欠かさず、この日も水垢離の後に心臓麻痺を起こしたのです。
  1. 2023/12/09(土) 15:12:01|
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