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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

12月19日・家康公が松平から徳川に改姓して三河守になった。

永禄9(1566)年の明日12月19日に三河統一を終えた東照神君・家康公が朝廷に松平姓から徳川姓への改姓と従五位下・三河守を勅許されました。
愛知県岡崎市の伝承によれば松平氏は現在の愛知県豊田市の山間部の松平郷を治める土豪でしたが踊り念佛を広めながら旅をする時宗の遊行僧を逗留させて婿養子にしたのが後に安城城を攻略した岡崎・松平氏の初祖・松平親氏さまとされています。実際、徳川家の菩提寺の大樹寺の墓苑の奥には親氏さまから家康公まで松平8代の墓が並んでいます。
そんな西三河の豪族に過ぎなかった松平氏に突如として卓越した武将にして恩情に厚い領主の清康さまが生まれると瞬く間に三河一国を統一し、東は尾張の織田信秀さん(信長さまの父親)さんや西は駿河・遠江の今川義元さん、北は信濃にも勢力を拡大していた甲斐の武田信虎さん(晴信=信玄公の父親)の侵攻を寄せ付けず領有を確定したかに見えましたが所詮は戦国大名に過ぎず、天文4(1535)年12月5日の森山崩れで清康さまが乱心した家臣・阿部正豊に斬殺されると11歳の広忠さまでは松平家中で離反・策謀が相次いで治世が定まらず、天文18(1549)年に23歳で早逝すると同盟を結んでいた今川義元さまに乗っ取られて近代の植民地のような過酷な支配を受けました。その後、同盟の証の人質から広忠さまの死で今川義元さまの家臣にされていた家康公が桶狭間の合戦によって岡崎城を奪還すると2年後の永禄5(1562)年に織田信長さまと同盟を結び、今川氏に従属する東三河の牧野氏と合戦を繰り広げて三河統一を果たしたのです。しかし、松平氏はあくまでも武力で支配権を奪取した戦国大名であって領有することに正当性はなく、そこに不安を感じた家康公は朝廷による国主の勅許を得ようと政治的運動を始めました。
先ず岡崎生まれで旧知の京都の浄土宗・誓願寺(深草派の京都本山)の泰翁慶岳住職の紹介で五摂家筆頭の近衛前久さんに官位と任官の協力を依頼しました。これには巨額の工作資金を要したはずですが貧乏な三河でどのようにして捻出したのかは不明です。すると三河の土豪の松平氏では血統が卑しく宮中に出入りさせる官位や官職を与えることはできないと言う毎度の結論になりました。そこで家康公は持ち前の粘り腰を発揮して北関東出身の誓願寺の役僧に「遊行僧から松平氏に婿養子に入った初祖・親氏さんの出自は北関東の源氏の嫡流である新田氏につながる得川(とくがわ)氏の系譜の世良田氏」と証言させてこれを近衛さんに説明させました。それでも正親町天皇は「前例がない」と難色を示しましたが、そこは足利義晴さんを討った三好・松永一派が擁立した将軍・義栄さんを後押ししていた近衛さんが家康公を味方につけようと尽力して何とか承認されたのです。
この時、俵の藤太=藤原秀郷さまに代表される板東藤原氏の血統も重なっていることになりましたが「征夷大将軍は源氏」と言う前例に従って任官時に解消しています。それでも足軽・木下弥右衛門の息子の藤吉郎が関東に下向する公家が大政所と肉体関係を持って生ませた落とし種と言うことにして豊臣秀吉になったのに比べればまだ虚構は軽いでしょう。 また「得川」を「徳川」に変更した経緯は不明ですが風格が増したのは確かです。
  1. 2023/12/18(月) 14:56:33|
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