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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

1月16日・日清戦争の連合艦隊司令長官・伊東祐亨元帥の命日

大正3(1914)年の1月16日はある意味では地球1周に等しい大航海を終えて艦と乗員が疲労していた帝政ロシアのバルチック艦隊を大差がない戦力で迎え討って圧勝した日露戦争の連合艦隊司令長官の東郷平八郎元帥よりも圧倒的に不利な戦力差があった清国艦隊を完膚なきまで叩きのめす偉大な軍功を上げた日清戦争の連合艦隊初代司令長官・伊東佑亨(すけゆき)元帥の命日です。
「薩摩の海軍」と言われているように伊東元帥も鹿児島県出身ですが、日向国飫肥藩主の伊東家に連なる名門なので西郷南洲翁や大久保利通内務卿、東郷平八郎元帥、大山巌元帥、山本権兵衛海軍大臣などを輩出した下級武士の集落だった加治屋町ではなく天保14(1843)年に武家屋敷が並ぶ城下の清水馬場町で生まれました。
成長すると下級武士のような郷中教育ではなく正式な師について学び、文久3(1863)年に設立された開成所(東京大学の前身とされることもある)に入門して蘭・英・仏・独・露の語学や天文・地理・窮理(=自然科学)・数学・物産・化学・器械・画学・活字などの当時、最先端の西洋学の英才教育を受け、この頃から海軍に興味を持つようになったようです。さらに江川太郎左衛門英竜さんが伊豆・韮山の私邸で開いていた高島流砲術の塾に入門し(江川さんは世界に先駆けて炸裂弾を発明してそれまで発射した鉄球で城壁を破壊するだけだった火砲を殺傷兵器に進化させた)、幕府が1864年に神戸で開設した海軍操練所に入所して近代海軍の砲術士官と航海士官としての素養を修得しました。ただし、東郷元帥のようにイギリス留学はしていません。
戊辰戦争では榎本武揚さんが率いる幕府海軍との海戦で活躍して明治新政府で海軍に入ると明治4(1871)年に海軍大尉、明治10(1877)年にはオランダ製の3本マストの蒸気艦「日進」の艦長になり、明治15(1882)年に海軍大佐に昇任してイギリス製の3本マストのコルベット(フリゲートよりも小型の戦闘艦)「龍驤」、同3本マストのフリゲート「扶桑」、同3本マストのコルベット「比叡」の艦長を歴任して明治18にはイギリスで竣工した鉄製巡洋艦「浪速」の回航指揮官に任じられて艦長になりました。
明治19(1886)年に海軍少将、明治25(1892)年に海軍中将に昇任すると明治26(1893)年に常備艦隊司令長官に指名されて明治27(1894)年に日清戦争が始まると各鎮守府の艦艇を指揮下に加えた連合艦隊の司令長官として海軍の主力を指揮することになりました。しかし、当時の日本海軍は旗艦の「松島」さえ4217トンの巡洋艦で巡洋艦8隻とコルベット6隻に過ぎず、一方の清国海軍は「定遠」「鎮遠」は7220トンの戦艦2隻と巡洋艦10隻、砲艦12隻と圧倒的戦力差でした。
これに対して伊東中将は艦隊を縦列での運用と艦砲の射撃を十分に訓練し、足が遅い清国の大型艦の側面をすれ違う形で主砲と舷側の艦砲で集中砲火を浴びせて、日本側も巡洋艦2隻が大破し、298名の死傷者を出したものの清国に巡洋艦5隻を撃沈、戦艦にも集中弾を浴びせて(頑強な装甲で撃沈・大破は免れた)850名の死傷者を与えました。
日露戦争では軍令部長を務め、終戦後の明治38(1905)年に元帥に列せられました。
  1. 2024/01/19(金) 13:03:00|
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