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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

1月6日・「日赤の母」・大給恒の命日

明治43(1910)年のさかのぼる1月6日は外向きに積極性を発揮して「日赤の父」と呼ばれる佐野常民さんに対して内向きに組織を育成して「日赤の母」と呼ばれている大給恒(おぎゅうゆずる)さまの命日です(クラシック音楽でもハイドンさんは父、バッハさんは母と呼ばれていますから実際の性別は関係ないようです)。72歳でした。
大給さまは天保10(1839)年に徳川家の枝胤である松平家でも現在の岡崎市の山間部に陣屋(城ではなく屋敷)を構え、隣接する額田郡や加茂郡大給、信濃国の佐久郡田野口に領地を有していた奥殿藩・1万6千石の大名の嫡男として生まれました。大給さまは幼い頃から抜群の学才が評判になっていて世継ぎとしての帝王学や必修科目だった漢文古典、儒学だけでなく蘭学も学んで西洋事情に精通していたと言われています。
嘉永5(1852)年に父が隠居して家督と竹橋御門番を受け継ぐと翌年にはアメリカのペリー艦隊が浦賀に来航して世情が騒がしくなりましたが水戸藩一派の現実を無視した狂信的尊皇攘夷には与せず、西洋文明の導入と軍備の拡充が急務と自分の領地で農民兵を招集して歩人隊=歩兵部隊を編成しました。また幕府内の人材登用によって大番頭、若年寄に昇進する一方で陣屋を父祖の地である奥殿から飛び領地ながら最も石高が大きい信濃国佐久郡に移転して、ここに西洋式の星形の龍岡城を築きました。
しかし、幕政では薩長土の過激暴徒たちと結託した公家たちが偽勅(虚偽の勅命)を用いて強要する実現不可能な再鎖国を巡って政事総裁職だった武蔵国川越藩主の松平直克さんによって若年寄を解任されましたが、慶応元(1865)年には陸軍奉行に返り咲いて若年寄に復職すると翌年には老中、陸軍総裁にまで昇任しました。
ところが慶応4(1868)年に戊辰戦争が勃発すると欧米列強の軍事介入を招く国内戦に反対して陸軍総裁と老中を辞職すると徳川家との訣別を表明するために大給姓に改姓して佐久郡の領地に帰ったのです。明治新政府にはいち早く恭順の意を表しましたが幕閣でも重要な役職にあったことから自領内での謹慎を命ぜられ、新政府軍が近代兵器を揃えた長岡藩に苦戦すると命令されて参戦した軍功で謹慎を解かれました。しかし、小藩に戦費は負担が大き過ぎて間もなく龍岡藩は財政破綻し、廃藩置県が布告される1ヶ月前に自ら藩知事(藩籍奉還で封建的な藩主の呼称を役職に変更した)の職を辞しています。
それでも数少ない西洋事情に精通している旧藩主として明治新政府内で活躍の場を得ましたが、明治10(1877)年に西南戦争が始まると明治7(1874)年の佐賀の乱で繰り広げられた悲惨で残酷な非近代的な戦闘様相が再現されることを懼れた旧佐賀藩医の佐野さんが若い頃のフランス留学で感銘を受けた赤十字の人道・博愛精神を実践すべく敵味方分け隔てなく治療・介護する診療所の設置を嘆願しました。この嘆願は西南戦争の帰趨を藩閥の駆け引きの具にしていた明治新政府は却下したものの現地司令官の有栖川宮熾仁親王が承認して博愛社が創立されました。
そうして誕生した博愛社を明治19(1886)年にジュネーブ条約に調印して翌年に日本赤十字社に発展させる上で大給さまが残した功績は佐野さんと優劣がつけられません。
  1. 2024/01/24(水) 15:23:29|
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