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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

1月9日・ロシア革命の発端・血の日曜日事件が起きた。

満州では1月2日に旅順要塞が降伏・開城して1週間後の1月9日(ロシアの旧暦では1月22日)の日曜日に当時の首都・サンクトペテルブルグで1917年のロシア革命の発端とされる血の日曜日事件が発生しました。
日本では日露戦争の勝因としてロシア駐在武官だった明石元次郎大佐がレーニンなどのマルクス主義者たちに活動資金を渡してロシア国内に反帝政の革命の気運を発生させたことを指摘する歴史研究者がいますが、この時点ではマルクス主義は支持を集めておらず指導者もマルクス主義者の革命組織とは別に労働者の集会を主催していたロシア正教会のゲオルギー・アポロノヴィチ・ガボン司祭で最下層の人々の窮状を皇帝に訴え、救済を求めることが目的でした。勿論、日露戦争の戦費は帝政ロシアの財政を圧迫し、庶民に重税を課していたので「早期停戦を主張した」と言う記録はあります。
この日、ガボン司祭の呼びかけに応じて労働者の集会がサンクトペテルブルグに住む労働者18万人の内、10万5千人が参加するストライキを実施した後でサンクトペテルブルグの大通りを宮殿に向かって練り歩く請願行進を始めました。この時の請願は「憲法制定会議の招集」「労働者の基本的な権利の保障」「敗戦が続く日露戦争の中止」「各種自由権の確立」などの当時の西ヨーロッパでは常識になっていた内容でしたが、各地の領主であり銀行や企業を経営する上流階層は労働者を中世の農奴と同じ存在として搾取する前時代的な支配者意識から脱することができておらず、ガボン司祭の集会以外の庶民たちも行進に加わって6万人が参加する大規模な労働運動になりました。
このため皇帝の側近は軍隊と警察で行進を阻止するつもりでしたが簡単に押し切られてしまい多くの労働者たちは宮殿前に到着しました。しかし、最下層の庶民たちもロシア正教会の守護者でもある皇帝に対して絶対的な忠誠心を抱いていて「直訴すれば必ず救済してもらえる」と信じて道路を埋め尽くしていても騒ぎは起こさず代表者の請願書を受け取りに皇帝が遣わした側近が出てくるのを固唾を呑んで見守っていました。
ところが皇室の権力者から見れば6万人の大群に宮殿が包囲されるのは暴動に他ならず、1789年5月5日のフランス革命の悪夢が目の前で再現されているような危機感を抱いても不思議はありませんでした。このため誰が命令したのかは不明でも衛兵たちは武器を持たず暴れてもいない市民に弾を込めた銃を向け、引き金を引いたのです。この事件をロシア革命の正当化に利用したソビエト共産党は死者数4000人以上と公式発表していました(現在のロシアでは1000人程度としている)。
さらにこの発砲が宮殿を守る衛兵だけでなくサンクトペテルブルグ市内の各地でも同時多発的に始まったことから「皇帝の命令」とする噂が革命勢力によって広められるとロシア国民の忠誠心は急速に冷めて搾取者である上流階層の代表として憎悪の対象になり、ロシア国内で暴動が頻発するようになるとレーニン一派はそれを革命の火種として油を注いでいったのです。それでも現在、皇帝・ニコライ2世は暴力革命の犠牲者としてロシア正教会では聖人に列せられています。
  1. 2024/01/28(日) 13:54:23|
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