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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

1月13日・ウクライナ生まれのスパイ・ヴィーケリッチが獄中死した。

1945年の1月13日にソビエト連邦が日本に送り込んだスパイの頭目・リヒャルト・ゾルゲさんの片腕として暗躍したウクライナ生まれのブランコ・ド・ヴィーケリッチさん(日本名・武藤利一)が網走刑務所で獄中死しました。ただし、本人は幼い頃から大学生になるまで暮らしたユーゴスラビアへの愛国心が強かったようです。
ヴィーケリッチさんは1904年にオーストリア・ハンガリー帝国の領内だった現在のクロアチアのオシエクで陸軍将校とユダヤ系資産家の娘夫婦の長男として生まれました。
その後、父の転属に伴って帝国領内を転々と移住しますが1918年に父が新たに発足したユーゴスラビア王国陸軍の将校になって首都・ザグレブに定住することになりました。この父は同じく軍人でありながら詩人だった祖父の文才を受け継いで小説家としても有名でこの血統が後にジャーナリストとして活動する上で力を発揮しました。また語学にも優れ母国語のクロアチア語だけでなく周囲の7ヶ国語に精通し、ロシア語やスペイン語も理解し、来日後には日本語も会話に不自由しない程度に上達しています(拘置所に収監後は日本語で手紙を書く必要から記述も習得して当初は片仮名書きだったものの間もなく漢字を用いるようになり、やがて短歌を詠むようになりました)。
1917年にロシア革命が勃発すると周辺各国では革命の熱気に触発された若者たちがマルクス主義の熱に浮かされ、ヴィーケリッチくんもザグレブの中等教育学校に入校中に感化を受けて1923年に卒業すると進学した美術アカデミーの共産主義学生部会に参加しました。翌年、チェコのブルノ工科大学に留学しましたがこれは弾圧を受けていたユーゴスラビアのマルクス主義組織との連絡要員だったと言われています。
1926年に中退して帰国すると母と弟妹を連れてパリ大学法学部に留学してここでマルクス主義者たちと交流を深めるのと同時に数少ないインテリ派として頭角を現し、1932年に国際マルクス主義組織=コミンテルンに提出した論文が高く評価されてスターリン書記長の世界共産主義革命戦略の標的になっていた日本に派遣されることが決定しました。
日本ではフランスとユーゴスラビアの雑誌の特派員と言う肩書でしたが、日本語が秀逸なだけでなく感情を読み取る洞察力に優れ、取材では相手の主張を存分に語らせて日本の雑誌や新聞にはその趣旨に反しない記事を寄稿し、察知した事実は外国で発表しながら核心部分はゾルゲさんを通じてモスクワに送っていたようです。
ヴィーケリッチさんは日独伊三国同盟の一員である日本でナチス・ドイツの動向に関する情報を調査していましたが、1941年6月のロシア侵攻については独ソ不可侵条約を信じ切っていたスターリン書記長が無視したため甚大な被害を受けることになりました。
1941年10月18日にヴィーケリッチさんはゾルゲさんや朝日新聞の記者で近衛文麿内閣の外交顧問だった尾崎秀実さんと共にスパイ容疑で逮捕されましたが、仕事上の交流を持った日本のマスコミ関係者が「ソビエト連邦を利するような情報は与えていない」と口を揃えて証言したため1944年4月に無期懲役の判決が確定し、網走刑務所で発症した慢性消化不良で体力が衰えてこの日に急性肺炎で死亡したのです。40歳でした。
  1. 2024/01/29(月) 15:35:47|
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