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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

1月28日・「百人斬り」の虚報で向井少佐と野田少佐が銃殺された。

昭和23(1948)年の1月28日に東京日日新聞(後の毎日新聞)が南京占領を報じた記事で「どちらが先に100人斬るか競い合っている」と言う虚偽の武勇譚が紹介されたことで敗戦後に南京軍事裁判所で死刑判決を受けた向井敏明少佐と野田毅少佐が南京市の中華門外の雨花台の刑場で銃殺されました。
事件の発端は昭和12(1937)年8月13日に発生した第2次上海事件で、日本軍がそれまでの不拡大方針を一転させて大規模な部隊を送り込んで国民党軍を敗走させるとその余勢を買って南京も占領しました。すると当時は文民の服装で日本軍を攻撃しながら略奪や殺害などの犯罪も行う便衣兵が横行していたため戦争犯罪として取り締まりましたが、戦時下の興奮状態と便衣兵の凶悪な実態から殺害に及ぶ例も少なくありませんでした。
向井少尉(当時)と野田少尉は上海派遣軍第16師団歩兵第9連隊第3大隊副官と同大隊砲兵小隊長として赴いた南京で11月29日に東京日日新聞(後の毎日新聞)の記者の取材を受けて「向井少尉と野田少尉でどちらが先に敵を100人斬るか競争している。現在65対25」と豪語したと言う記事が翌朝に掲載されました。
この記事は武勇譚として読者の賞賛を浴びたため12月4日には「記録更新86対65、向井少尉が一番乗りを敢行」、12月6日は「両少尉が最前線に立って奮戦、89対78」、12月13日は「106対105になったので引き分けとして新たに150人を目指して競争を再開」と続報を続けました。それでも都市部では飽きられたようで鹿児島県肝属郡田代村出身の野田少尉の地元地方版の毎日新聞が翌年3月20日に帰還した記事で「愛刀の関の孫六で374人斬った」と紹介したくらいで次第に先細りになりました。
その後の野田少尉は歩兵科から航空科に転換しましたが、対米英戦争が始まると東南アジアでもミャンマーの工作機関・南機関に配属されましたがアウン・サンの裏切りに遭って帰国すると少佐として浜松の航空隊で敗戦を迎えました。
一方の向井少尉は日本国内に留まっていましたが東京日日新聞に「戦死した」と誤報が流されるほど影が薄く、敗戦後は出身地の山口県玖珂郡神代村で暮らしていたようです。それでも昭和21(1946)年に新聞報道を知った極東軍事裁判所の検事の取り調べ受けましたが報道が虚偽であることを認められて釈放され、旅費を受け取って帰宅しています。
ところが昭和22(1947)年の夏になって突如、2人は新聞報道を事実とする文民と捕虜虐殺の戦争犯罪者として逮捕されると巣鴨拘置所に移送された後、南京の軍事裁判所に告発されることになりました。それでもこの裁判も多くのB、C級戦犯の裁判と同じく始めから結論ありきの復讐のための手続きに過ぎず、弁護側が要求する当時の関係者などの証人の出廷や犯罪事由の証拠を検証されることもなく同年12月18日に軍人としての栄誉を保つ銃殺による死刑判決が出たのです。
しかし、日本教職員組合は共産党中国が南京において日本軍が犯した大虐殺と主張するこの「百人斬り」を事実として小中学高校の平和教育の特別授業で児童と生徒に教えることを決議しているので現在も洗脳が継続されているのかも知れません。
  1. 2024/01/30(火) 15:45:40|
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