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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月1日・明治の国際派弁護士・岡村輝彦の命日

大正5(1916)年の明日2月1日は明治初期にイギリスの司法弁護士の資格を取得して日本政府とイギリスの海運会社が争った明治25(1892)年の千島艦事件の裁判で勝訴を勝ち取った岡村輝彦弁護士の命日です。60歳から61歳でした。
岡村弁護士は安政元(1855)年若しくは安政2(1856)年の7月又は12月(藩の移封による混乱で生年月日の記録が4つ存在する)に浜松藩の大坂蔵屋敷で生まれました。7歳の時、蘭学・洋学に精通していた祖父と父を関西で吹き荒れた尊皇攘夷の凶風から保護すべく国元に帰されたため藩校・克明館に入校したものの講義の中心だった儒学や漢学古典には関心を示さず「高田屋嘉兵衛魯西亜物語」や「三航蝦夷日誌」「環海異聞」などを熟読して海外事情を学びました。
戊辰戦争後の明治元(1868)年に譜代大名の浜松藩は鶴舞(現在の千葉県市原市)に移封になり岡倉家も転居しました。すると鶴舞は東京に近いこともあり父と共に上京して蘭学・洋学を学び始めるとその学才を藩に認められて新たに設立された教育機関に入学して明治7(1874)年には開成学校英吉利(イギリス)法律科に進学しました。
さらに明治9(1876)年には第2回文部省留学生としてイギリスに渡り、ロンドンに4つある法曹院(弁護士の養成機関)の1つミドル・テンプルで基礎を学ぶと1ヵ月後にロンドン大学の加盟校のキングス・カレッジ・ロンドンに合格して正式にミドル・テンプルに入学しました。ミドル・テンプルでは神経衰弱を発症するほど試験勉強に励み、明治13(1880)年1月に法曹試験に合格して法廷弁護士になり、2月には高等法院上級裁判所の代議員になりました。続いて奉仕活動に近い巡回裁判所にも参加して海事裁判所を経験したことで海事法も習得しました。
明治14(1881)年に帰国すると司法制度が確立されておらず司法省、東京控訴院をたらい回しにされますが明治16(1883)年に大審院(現在の最高裁判所)の刑事局に配属され、明治18(1885)年に横浜始審裁判所(現在の地方裁判所)の所長になりましたが、結局、日本には岡倉さんが実力を発揮する場はなく明治24(1891)年に裁判所を辞職して代言人(現在の弁護士)事務所を設立しました。
そんな明治25(1892)年11月30日にフランスで建造されて日本人の手で回航してきた水雷砲艦・千島が愛媛県沖の瀬戸内海でイギリスの海運会社所有の貨物船と衝突して沈没する事故が発生して当時の日英和親条約の治外法権によって横浜の領事裁判所で公判が開かれることになり岡倉弁護士が代理人として参加したのです。
裁判では日本側が85万ドル、海運会社側が10万ドルを要求しましたが日本側の勝訴になったため海運会社が上海の高等領事裁判所に控訴すると中国の非文明的な風土でアジア人を蔑視していた領事によって今度は逆転敗訴になり(この時点で日本政府は代理人の交代を検討した)、最終審としてロンドンの枢密院に上告しました。舞台がイギリスに移れば岡倉弁護士のホーム・グランドなので存分に実力と人脈を発揮して1895年7月3日に上海の判決を破棄して横浜領事裁判所に差し戻す判決を下し、勝訴を勝ち取りました。
  1. 2024/01/31(水) 12:58:02|
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