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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月2日・東條政権でなくて良かった。斎藤隆夫議員による反軍演説

敗戦後の歴史観では対アメリカ・イギリス戦争を前に軍国主義による言論統制が徹底されていたとされている昭和15(1940)年の2月2日に国会衆議院で斎藤隆夫議員が後に「反軍演説」と呼ばれる「支那事変処理を中心とする質問演説」を行いました。
確かに昭和18(1943)年10月27日には東條英機首相の戦時独裁体制を痛烈に批判して政権交代を画策した中野正剛議員が自害に追い込まれていますが、この時の首相はアメリカとの戦争の回避に全力を傾注したと言われる海軍の米内光政大将でした。
斎藤議員は昭和10(1935)年に陸軍の統制派が発行した「陸軍パンフレット」が軍事独裁による社会主義国家の樹立を主張していると批判し、昭和11(1936)年に2.26事件を軍部の政治介入に利用としている山口県人の寺内寿一陸軍大臣に対して真摯な反省を求める「粛軍演説」を述べ(翌年1月には浜田国松議員が寺内陸軍大臣と「腹切り問答」を行っている)、さらに昭和13(1938)年には満州事変以降、大陸での戦線拡大を続ける陸軍の軍事費を捻出するために近衛文麿内閣が制定した産業を国家が統制し、国民に資源となる物資の供出を課し、労働力までも国家が差配する「国家総動員法」の危険性を指摘して反対する演説を行っていました。
ところが過労によって倒れ、脳梗塞の疑いで病床に伏している間にも戦線は拡大の一途を辿り、国民の生活を圧迫るようになっていて「何故、沈黙しているのか」「国民の声を政治に届けてくれ」と言う手紙が殺到したため2年ぶりに演説することを決めたのです。
こうして昭和14(1939)年11月から原稿の執筆に着手し、脱稿してからは鎌倉の海岸で妻がのど飴の代わりに持たせたキャラメルを舐めながら演説の練習に励み、本番前には暗記して議会でも原稿に目を落とすことなく語り切ったと言われています。
ところが国会では軍部を批判する言動で国民の絶大な支持を集める斎藤議員の再登場に米内内閣ではなく陸軍が所属政党の立憲民政党に圧力をかけて阻止しようとしましたが当然応じることはありませんでした。
こうして始まった「反軍演説」ですが第1に「紛争不拡大と交渉による和平を表明した近衛声明は事後処理として最善を尽くしたものなのか」、第2に「いわゆる東亜新秩序の建設の内容はどのようなものなのか」、第3に「世界の戦争の歴史を見ると東洋からこそ世界の平和が開かれると考えるがどうか」、第4に「近く成立する支那新政権に関する幾つかの疑問」、第5に「事変後の政府の責任と新政権への警告」と言う内容で「反軍」と言うよりも大陸での戦闘の長期化によって国民に広まっていた厭戦感の代弁でした。実際、畑俊六陸軍大臣は「上手いこと言うもんだな」と感心して答弁には立ちませんでした。
ところが軍部の顔色を覗う衆議院議長がこの演説の速記記録の3分の2=1万字を削除し、衆議院は除名決議を可決して稀代の名政治家は辞職させられました。しかし、昭和17(1942)年の総選挙で圧倒的多数の首位当選を果たして返り咲くと敗戦後の新憲法下の選挙でも議席を維持して第1次吉田茂内閣と片山哲内閣では入閣し、昭和24(1949)年10月7日に亡くなるまで衆議院議員でした。
  1. 2024/02/02(金) 15:46:56|
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