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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月7日・「両舷直の親玉」・古村啓蔵少将の命日

昭和53(1978)年の明日2月7日は部下たちから「両舷直(海軍兵学校の成績ではなく実力でのし上がった提督への愛称)の親玉」と仇名されたように他を圧倒する巨漢と風貌、人間味あふれる言動で敬愛された古村啓蔵少将の命日です。
古村少将は日清戦争が終わった翌年の明治29(1896)年に海がない長野県の上伊那郡朝日村で生まれました。旧制・諏訪中学校から海軍兵学校に45期生として入営しましたが戦艦・大和の最期の艦長の有賀幸作大佐とは同郷の同期でもあり、古村生徒の入営時の身元保証人は旅順攻城戦の英雄だった有賀大佐の父でした。また有賀大佐の前任の艦長で沖縄特攻=天1号作戦でも第2艦隊参謀長として乗艦していた森下信衛少将も同期です。
海軍兵学校では暴飲暴食で健康を害しましたが89名中10位の成績でした。昭和2(1927)年に海軍大学校27期生として入校し、卒業後はイギリス駐在武官、海軍省教育局第2課長などを務めて対米英戦争を迎えました。
対米英戦争では重巡洋艦・筑摩の艦長として真珠湾・ミッドウェイ作戦に参加し、南太平洋海戦では至近弾を受けて両耳の鼓膜が破れる負傷を負いながら指揮を執り続けました。続いて戦艦・扶桑の艦長になりましたが半年で戦艦・武蔵に転任して昭和の陛下の行幸を迎え、その後は古賀峯一連合艦隊司令長官に同行してトラック島に移動するとここで少将に昇任して第3艦隊参謀長に就任しています。
昭和19(1944)年3月からは第1機動艦隊参謀長を兼務してマリアナ沖海戦で惨敗を喫しながら第1航空戦隊司令官になり、昭和20(1945)年1月には第2水雷戦隊司令官として旗艦の軽巡洋艦・矢矧に乗り込みました。すると同年4月1日にアメリカ軍地上部隊が沖縄本島に上陸して連合艦隊は戦艦・大和に死に花を咲かそうと片道燃料でアメリカ艦隊が十重二十重に取り囲んでいる沖縄本島に突入・座礁して沈まぬ砲台になって砲弾を撃ち尽くすまで戦うと言う天1号作戦を発令し、第2水雷戦隊にも艦隊を編成するため同行することを命じたのです。
こうして4月6日に柱島の停泊地から出航しましたが、その夜、矢矧の艦内で日系人通信士官2人が英語で作戦を批判していると古村司令官が声をかけ、英語で「最後まで助かる努力をせよ」と説き、そうして助かった通信士官と佐世保の士官クラブで食事を共にした後、敬礼ではなく握手で次の任地に送ったそうです。しかし、4月7日の午後12時過ぎには鹿児島県坊ノ岬沖90海里でアメリカ海軍艦載機の攻撃を受け、約2時間の攻撃で戦艦・大和と軽巡洋艦・矢矧は撃沈されました。この時、古村司令官は艦長と共に矢矧に残りましたが、沈没前の激しい振動で海に放り出されて浮いているところを駆逐艦に救助されました。艦艇勤務はここまでで敗戦は横須賀鎮守府参謀長兼食料担当司令官で迎えています。敗戦後は海軍が消滅するまで司令長官代理として残務処理に当たりました。
敗戦後には「こまっちゃうナ」でデビューした頃の山本リンダさんのファンクラブに加盟し、長唄のコンサートを開くなどの人間味あふれる逸話には事欠きません。
  1. 2024/02/06(火) 15:23:30|
  2. 日記(暦)
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