fc2ブログ

古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月9日・喘息患者の星・競走馬タニノムーティエが死んだ。

1991年の明日2月9日に競走馬としては致命的な呼吸器疾患・瑞鳴症を患いながらも「ヒュー、ヒュー」と高い吐息の音を響かせて懸命に走る姿で喘息患者の子供たちに希望を与えたタニノムーティエが死にました。25歳で老衰と言われています。
タニノムーティエは昭和42(1967)年に北海道静内町のカントリー牧場でフランスの重賞レース(名門戦)のダリュー賞とオカール賞を制した輸入馬の父とレースの出場経験がないまま妊娠・出産専業になった母の間に生まれました。異父弟には昭和48(1973)年の天皇賞、昭和49(1974)年の菊花賞を制したタニノチカラがいます。
このカントリー牧場の経営者は谷水信夫氏で、競走馬についてはズブの素人だったにも関わらず「ハードトレーニングで鍛える」と言うスポーツ根性物語式の経営方針を調教師や騎手、飼育員に強要して結果的にタニノムーティエの競走馬生命を縮めました。
幼い頃のタニノムーティエは瘦身で貧相に見えましたが心肺機能はずば抜けていて、それを知った谷水氏は「この馬でダービーを取る」と宣言してスポーツ根性物語の主人公に配役してしまいました。3歳になると京都競馬場の島崎寛厩舎に移されて調教を受けましたがやはり貧相な外見からあまり期待されていなかったようで、騎手は特に戦績を残していない若手の安田伊佐夫騎手が抜擢されました。
それでも昭和44(1969)年7月に函館オープンでデビューすると2位に6馬身の大差をつけて勝利し、第2戦でも5馬身差で圧勝、重賞レースの第3戦は2位で終わったものの4戦目では10馬身以上の大差をつけて勝利して華々しく関西に凱旋したのです。
すると谷水氏は4戦3勝を挙げた安田騎手を前年の日本ダービーを制したベテランに交代させました。ところが関西での初戦の重賞レースでは勝ったもののその次のレースでは他馬に挟まれたため4着に終わり、これに激怒した谷水氏は騎手を安田騎手に戻した上、島崎調教師をなじって「自分で調教する」と言い放ちました。その諍いは関係者の仲介で収まり、次のレースからは1着を続けて関西の代表馬との評判を獲得すると「東西対決」として関東の代表馬・アローエクスプレスと対戦することになったのです。
両者の対戦成績は昭和45(1970)年5月のNHK杯で後塵を拝した以外はタニノムーティエの圧勝でしたが、同年5月(NHK杯の4日後)の日本ダービーを制した後の夏の休養を北海道での放牧か自分の厩舎で過ごさせるかを検討している島崎調教師に谷水氏は「新たに開設した滋賀県の牧場に連れて行く」と言い出して強行しました。ところが島崎調教師と安田騎手が牧場に行くとタニノムーティエは雨の中で屋根がない場所にズブ濡れのまま放置されていて、それだけでなく谷水氏が牧草生育の土質改良のために大量の石灰を撒いたことも重なって瑞鳴症を発症したと言われています。
結局、この持病が競走馬生命を縮めて確実視されていた3冠を達成できないまま昭和45(1970)年11月15日の菊花賞の11着を最後に引退しました。この引退から1年後の11月18日に谷水氏は交通事故によって61歳で死亡しました。種馬としては谷水氏が指名していた血統の雌馬ばかりを相手にしたため有力な子孫を残せませんでした。
  1. 2024/02/08(木) 15:14:34|
  2. 日記(暦)
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<続・振り向けばイエスタディ730 | ホーム | 続・振り向けばイエスタディ729>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://1pen1kyusho3.blog.fc2.com/tb.php/8932-3c0af9fe
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)