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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月12日・社会党の論客を黙らせた軍歴の竹田五郎空将の命日

2020年の明日2月12日は統合幕僚会議議長を退役する昭和56(1981)年に雑誌のインタビュー記事を政治問題化されて「超法規発言」で売国奴・金丸信防衛庁長官に解任された栗栖弘臣陸将の二番首(合戦で討たれた2人目の将)と言われながらかえって歴戦のパイロットとしての軍歴を見せつけた竹田五郎空将の命日です。98歳でした。
竹田空将は大正10(1921)年に福岡市で生まれ、地元の名門・修猷館中学校に進学しましたが2年で中退して広島陸軍幼年学校に入営すると予科士官学校修了後は市ヶ谷の士官学校ではなく所沢の航空士官学校に入って99式双発軽爆撃機の操縦員になりました。
竹田少尉が卒業した昭和17(1942)年は東南アジアの植民地軍がヨーロッパ戦線の激化によって縮小傾向だったため大陸戦線で活躍しましたが、国民党軍が戦闘機部隊をアメリカ人義勇パイロットで増強したため竹田中尉も昭和18(1943)年に日本国内で機種転換教育を受けて戦闘機に乗り換えました。
当時はまだマリアナ諸島は陥落していなかったのでBー29による都市部爆撃は中国から九州が狙われるくらいでしたが日本近海を徘徊するアメリカの航空母艦からの艦載機による機銃掃射などが問題でした。そのため国土防空に当たる陸軍航空隊は川崎重工業の3式戦闘機・飛燕や敗戦後、アメリカ軍に日本軍の最高傑作と謳われた4式戦闘機・疾風、3式戦闘機の故障が多い水冷式エンジンを信頼性が高い空冷式に転換した5式戦闘機などを続々と投入し、竹田大尉もそれらを駆って都市空襲に飛来するBー29を迎撃したのです。実際、竹田大尉はBー29を1機撃墜していますが別の戦闘で主翼に多数の命中弾を受けて不時着しているので戦績としては引き分けだったようです。
敗戦後は公職追放になって平和台球場でパンや菓子を扱う売店を経営しましたが昭和25(1950)年に警察予備隊が創設されると翌年末に1尉に相当する1等警察士として入隊し、昭和28(1953)年には保安隊の操縦要員になり、昭和29(1954)年の航空自衛隊の発足を受けて3等空佐として転換しました。
以降は一貫して航空部隊の指揮官・防衛幕僚として歩み、昭和51(1976)年に総隊司令官、昭和53(1978)年に航空幕僚長、昭和54(1979)年に統合幕僚会議議長に就任しました。その統合幕僚会議議長を退官する直前の雑誌インタビューの設問で「徴兵制は憲法18条が禁じる苦役に当たる」とする政府統一見解を「自衛官は苦役に服しているのか。これは冒涜だ」、国民総生産=GNPの1パーセント以内としている防衛費を「必要な経費の積み重ねで決まるのが予算だ。始めから上限を決めてその枠内でと言うのは本末転倒だ」と批判すると「超法規発言」で栗栖弘臣陸将の首を取った朝日新聞や社会党は退職金や年金が出ない懲戒免職処分を要求しました。
ところが国会で追及した社会党の論客・大出峻議員は答弁に立った防衛庁の佐々淳行人事教育部長に元陸軍少尉として高射砲でBー29を迎撃していた自身の戦歴を持ち出された後、竹田空将が陸軍大尉として戦闘機でBー29を1機撃墜した上、自分も撃墜を経験していることを教えられて要求を取り下げて通常の勧奨退職に同意したのです。
  1. 2024/02/11(日) 14:57:50|
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