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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月19日・東亜同文書院の初代・3代院長・根津一の命日

昭和2(1927)年の2月19日は愛知大学の前身で「大アジア主義」を掲げた五摂家筆頭の近衛篤麿さんが上海に創設した東亜同文書院の初代と3代(2代の杉浦重剛さんが急逝してから20年間務めた)の所長を務めた根津一先生の命日です。66歳でした。余談ながら俳優の根津甚八さんは曾姪孫(そうてっそん=兄弟姉妹の曾孫)に当たります。
根津先生は万延元(1860)年に現在の山梨県山梨市で富豪の次男として生まれました。幼い頃から武術に励む一方で学問、特に四書五経などの漢籍古典を好んで読み耽っていたそうです。明治10(1877)年に西南戦争が勃発すると軍備の拡充を急ぐ明治政府が創設した兵からの昇任以外に下士官を養成する陸軍教導団に参加しました。ただし、西南戦争が9ヶ月間で終わったため出征はしませんでしたが首席で卒業しています。
続いて旧制度の陸軍士官学校砲兵科に入ると私的に勉強会を開いて時事問題などを議論し(1日3升飲む酒豪でもあった)、卒業後に広島鎮台に配属されると部下たちに「砲兵駆け足少尉」と仇名されるほど訓練に励み、頭脳と肉体が優れた指揮官になりました。
それが認められて陸軍大学校に入校しましたが、プロシア軍から派遣されたメッケル教官の「ドイツ至上主義」の言動を「日本蔑視」と受け取って講義中も衝突したため論旨退学になって少佐で予備役に編入されました。その反発から欧州を規範とする合理主義・技術偏重に陥って精神教育を怠っている陸軍の現状を批判する論文を発表し、それを採用するように東京と仙台の砲兵連隊での部隊教育と陸軍幼年学校や陸軍士官学校で四書五経などの漢籍を講義するアジア式精神教育に当たりました。
しかし、根津少佐は陸軍士官学校砲兵科の勉強会で意気投合した荒尾精大尉の中国潜入に同行することを希望して上海に創設した日清貿易研究所に予備役として参加しました。日清貿易研究所では調査活動と資金調達のため不在が多かった荒尾大尉に代わって実務を指揮する一方で清国の現状を解説した辞書「清国通商綜覧」を編纂・刊行しました。当時の中国に関する辞典は歴史と地理に限定されていたのでベストセラーになったようです。ちなみに後身の愛知大学も中国専門の辞典として中日大辞典を編纂・刊行しています。
その後、日清戦争によって日清貿易研究所が閉鎖されて帰国すると京都で隠遁生活を始めましたが間もなく陸軍の強い要請を受けて情報分析や作戦指導などで活躍しました。しかし、現役への復帰は固辞して京都での隠遁生活を再開したところに科学技術=軍事力では欧米の後れを取っても精神文化では比肩し得るとする「大アジア主義」を普及するための教育機関として東亜同文書院を創設した近衛さんが所長就任を要請したのです。
こうして初代所長に就任した根津先生は東亜同文書院を大学のように単に学問だけを教えるのではなく現在で言うビジネス・スクールのような「実用(学科としては政治、法律、商務、農工、文学などがあった)の知識を吸収する場である」と位置づけ、その根本を東洋的な道徳に置き、根津先生自身が講義を担当して「志を中国にもて」と説きました。
そんな東亜同文書院も敗戦後に教職員が上海で抑留されて中国共産党の洗脳教育を受けたことで後身の愛知大学の学風は正反対に向いてしまったようです
  1. 2024/02/17(土) 15:49:19|
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