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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月22日・日本で最初に撃墜した生田乃木次ポツダム少佐の命日

2002年の明日2月22日に第1次上海事変において日本の陸海軍で最初に敵機を撃墜した戦闘機パイロットの生田乃木次ポツダム少佐(敗戦時の階級)がそれからピッタリ70年後に亡くなりました。97歳でした。
生田ポツダム少佐は日露戦争中の明治38(1905)年2月に生まれたため1月2日に旅順要塞が降伏した興奮が冷めていなかった父親に「乃木次=乃木に続け」なる珍妙な名前を付けられました。しかし、旅順要塞攻城戦では金沢の第9師団も動員されて全滅に近い犠牲を被っているので福井県内に住んでいた生田家の地元でも出征して戦死・負傷した人がいたはずですからこの由来が周囲に好意的に受け容れられたかは疑問です。
実際、乃木次として成長すると陸軍士官学校ではなく海軍兵学校に52期生として入営しました。同期には昭和の陛下の実弟・高松宮宜仁親王や真珠湾空襲で「トラトラトラ=我、奇襲に成功せり」を打電した淵田美津雄大佐だけでなく爆装した零式艦上戦闘機による肉弾攻撃=神風(しんぷう)特別攻撃隊を立案・実行・推進した源田実、猪口力平、玉井浅一(敬称・階級・肩書不要)の死神3人組もいました。生田ポツダム少佐も飛行学生=操縦要員に指定されて5年間の教育を昭和4(1929)年に修了したのです。
昭和6(1931)年に航空母艦・加賀に戦闘機隊分隊長として配属されると翌年1月28日に第1次上海事変(日本人租界を国民党軍が攻撃したため警備に当たっていた海軍陸戦隊が応戦した)が勃発したため加賀も派遣されました。とは言え艦載機は加賀から地上の公大基地に展開して生田中尉の戦闘機隊の3式艦上戦闘機(イギリスのグロスター・ゲームコックを中島飛行機が改造した複葉機)は空襲する艦上爆撃機を護衛していました。そして昭和7(1932)年2月22日に攻撃してきた義勇軍として国民党軍に参戦していたアメリカの退役軍人のロバート・ショートさんのボーイング4Bと空中戦になって撃墜したのです。これは陸海軍を通じて初の戦果でした。
当然、日本国内ではマスコミが大々的に喧伝して生田ポツダム少佐は国民的英雄になりましたが出る杭は打たれる日本的精神風土は当時も変わらず、芸者上がりの女性との結婚を申請すると却下されるなど人事的に冷遇を受けるようになり(当時は山本権兵衛海軍大臣を始め芸者上がりの女性と結婚した海軍士官は珍しくなかった)、さらに腰を痛めたことも重なって昭和7(1932)年12月15日付で予備役に編入されました。それでも逓信省の航空官の職を斡旋されて航空機に携わり、昭和17(1942)年に再招集=現役復帰を命じられた時も籍だけを海軍に戻して航空官としての業務を継続して敗戦時にポツダム少佐になっています。
敗戦後は千葉県船橋市で「あけぼの福祉会」と言う保育園を開設して園長に就任すると「すべては愛」を園風として幼児を慈しみ(幼稚園ではないので幼児教育ではない)、園児や保護者から「お父さん先生」と呼ばれて慕われたそうです。
この転身は牧師になった淵田大佐以上に安堵させますが、昭和28(1953)年の参議院選挙に立候補して落選したのは余計でした。
  1. 2024/02/21(水) 15:07:24|
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