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古志山人閑話

野僧は佛道の傍らに置き忘れられた石(意志)佛です。苔むし朽ち果て、忘れ去られて消え逝くのを待っていますが、吹く風が身を切る声、雨だれが禿頭を叩く音が独り言に聞こえたなら・・・。

2月23日・名誉革命でオランダ君主と妻がイギリス国王に即位した。

1689年の明日2月23日に実際は議会がオランダに軍事進攻を要請したクーデターだった名誉革命でイギリス国王・ジェームズ2世が亡命した後、オランダの君主(まだネーデルランド州の統治者に過ぎなかった)・ウィレム3世とジェームズ2世の長女から嫁したメアリーさんが同時に即位しました。
この革命はジェームズ2世がイギリス国教会の信徒によるピューリタン革命でフランスに亡命してカソリックに入信したため反国教会だったのに対して議会は有権者の信仰を反映して国教会の信徒が多数派だったため対立し、国政の主導権を握ろうとする議会と絶対君主の復活を標榜するジェームズ2世の間で事態は先鋭化していったのです。
それでも議会はジェームズ2世には王太子となる男子がいないため国教会の信徒の母親に育てられ(ただし、死の前年にカソリックに改宗している)、プロテスタントのオランダ君主に嫁いだ長女が王位を継承すると期待していたのですが、1688年に男子が生まれるとカソリックによる支配の継続を公言したため革命を決意し、議会の代表が秘かにオランダを訪問して君主と長女にイギリスへの進攻を要請したのです。一方、オランダの君主側もルイ14世の登場で強国化したフランスの脅威が高まっていたためイギリスとの関係を強化する必要がありましたが、ジェームズ2世は長女を嫁がせておきながらプロテスタント国のオランダには冷淡だったので議会の要請はドーバー海峡の「渡りに船」でした。
こうして1688年6月にプロテスタントの7人の貴族連名の正式な招請状が届いたためオランダの君主も応じる意向を回答しましたが、貴族=騎士の多くがプロテスタントに改宗していることに危機感を抱いたジェームズ2世が常備軍を創設していたため軍備の強化を図る必要がありました。そうしてフランスの侵攻に対するプロシア諸侯の援軍派遣の約束を取りつけると同年9月にイギリス遠征計画を発表し、オランダとイギリスの議会も賛成したのです。一方、ジェームズ2世はカソリック偏重政策を撤回して国民に「オランダの侵略が迫っている」と訴えましたが後の祭りでした。
10月30日に2万人の部隊を乗せて出航しましたが嵐のため引き返し、11月11日の再出航で11月15日にグレートブリテン島西部のデヴォン海岸に上陸するとイギリス軍ではプロテスタントの兵士のカソリックの士官に対する不服従が横行し、プロテスタントの高級士官の寝返りが相次いだため戦線は崩壊してジェームズ2世は12月20日に王妃と王子をフランスに亡命させた翌日にケント州で捕らえられ、議会での助命決議を受けてウィレム3世の承諾の下、生涯2度目の亡命を経験することになりました。
ところが議会はジェームズ2世の長女であるメアリーさんを女王に即位させるつもりだったのですが、まだ国王ではなかったウィレム3世(イギリス国王の外孫ではあった)も王位を要求したため2人の王の共同統治として同時に即位することになったのです。この時、ウィレム3世はイギリスでのみ英語読みのジェイムズ3世に改名しています。
学校では「国王を処刑しなかったから名誉革命だ」と習いましたがイギリスでは立憲君主制が始まり、イギリス国教会が国教と定まったことを「名誉」としているようです。
  1. 2024/02/22(木) 17:05:50|
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